◆心華獨笑◆ 
第四百四七稿
 「悠々自適」




長年お世話になったリゾート・ホテルの正面玄関



 「クビになった」

 いや、ちがう、

 「定年退職した」

 いや、ちがう、

 「一身上の都合で退職させて戴きます」

 いや、ちがう、

 「突然、居場所がなくなった」

 居場所がなくなった・・・。まあ、実際はこれが理由かな・・・
この時、特にすぐに退職する予定はなかったのだが、
結果論として、会社側からは、

 「自主退職した」

 という事にされた。



 

ここには数多い思い出がある





さらば! 思い出のホテルよ!
 実は、これは少々前のお話し。
つい最近おこった出来事ではない。

 最初に書いたように、勤めていたホテルを退職した。
自分的には「退職した」ではなく「退職させられた」と言いたい。

 ただ、突然解雇されたわけではない。リストラされたわけではない。
定年になったのでもない。重大なミスを犯してクビになったわけでもない。

 実際には、突然、自分の担当するポジションが無くなると告げられた。
今のポジションが会社都合で無くなるので、他のポジションに部署変えになると言われたのだ。一方的に・・・。

 ゴネても仕方がない。その仕事自体が無くなってしまうのだから。
本社が決めた事で、有無を言わさず、だった。



 

ここで、ナイト・フロント・マンとして勤務していた



 自分のポジションとは、ナイト・フロントである。夜から朝までのフロント業務。つまり夜勤。夜の9時に出勤して翌朝の8時までが勤務時間。

 ホテルの客は家族連れや夫婦が殆どで、完全予約制のコテージ型ホテルなので、深夜に客がフロントに来ることは、まずない。つまり、仕事としては電話番と宿泊客の突然のトラブルの対応となる。

 だが、今時は予約もインターネットなので電話がかかることも殆どないし、宿泊客の深夜のトラブルなんて稀なこと。

 だからやることは、夜中に客が居なくなったフロントやレストランの掃除機かけとか、不具合が有る場所の簡単なメンテナンス、土産物売り場の商品陳列のディスプレイや商品の補充などが中心となる。さほど時間がかかる事ではない。

 後は、緊急事態でも起きない限り、休憩室でテレビを見たり、夜食を食べたり。残りの時間は、簡易ベッドで仮眠している。


深夜は一人ぼっちになる



 

昼間は人で賑わうフロント





小さな売店スペース
 一言で言ってしまえば、楽な仕事なのである。つまり、出勤して、ちょっと作業して、一晩寝るだけ。

 深夜の、広いホテルのフロントと事務室、真っ暗なレストラン、そして厨房まで、自分以外誰も居らず、完全にワン・オペで管理するので、心霊現象などに慄くタイプなら、かなりコワイかもしれない。突然、暗いレストランの方から、ガタリ! と音がしたりする。

 でも、実際に心霊現象が起こるわけもなく、仮に起こっていたとしても、自分はそう言う事に関しては鈍感なので、コワイという事は無い。かえって上司もリーダーも同僚も居ない独りボッチは、安気に自分のペースで仕事が出来て、後は寝るだけという快適な状態なのであった。

 ただ、時には深夜に客室で大事のトラブル発生!なんてことも、無くは無いので、客を泊めているホテルである以上、どんなにヒマでも、24時間体制という意味で、待機をする役割の夜勤は必要なのだと思う。

 そんなトラブルは、年に一回、有るか無しかだけど。



 

レストラン



  このホテルとの出会いは、今から22年前まで遡る。名古屋で自分の経営していた店「小角堂」が、諸々の事情により八ヶ岳に移転した時からの付き合いだ。

 その時に、ホテルの支配人と仲良くなり、事情により再び名古屋に移転してからも、ホテルの客として毎年のように訪れていた。

 時が過ぎて、八ヶ岳に移住するとなった時、八ヶ岳での仕事はまったく見つけていなかった。手ぶらの状態で、移住だけしてしまったのだ。

 引越しが終わって、ある程度片付けが終わって、落ち着いたら職を探すつもりで居た。求人誌を見たり、インターネットで探したり、ハローワークに行ったりするつもりだった。

 しかし、歳が歳だけに、条件の良い仕事など、そう簡単には見つかるまい。とは言っても、遊んでいるわけにはいかないのだ。移住で全財産使い切ってしまったようなものだったからだ。ハッキリ言って、貯えなどない。生活の為に働かなくては。

 我ながら、なんと無謀な行動だろうと思いながら、
前途多難を予測し覚悟していた。でも、なんとかなるだろう。自分は運がイイのだから。


ここの掃除機かけも仕事





フランス料理のフルコースを食べさせる
 移住を終え暫くして、このホテルの支配人に、手土産を持って移住した事の報告をしに行った。そこで、こんな会話をかわした。

<支配人> 「長屋さん、ついに移住しましたか。良かったですねえ。
これからは悠々自適に暮らすんですねえ〜、うらやましい」

<自分>  「いえいえ、悠々自適に遊んで暮らすなんて、トンデモナイ。
これから仕事を探すんですよ」

<支配人> 「そうなんですか?、こっちでも働くんですか」

<自分>  「もちろんですよ。そんな経済的余裕などまったくありません。
勢いで移住しちゃったんですから。ああ、そうだ。支配人、ここでバイトでいいから雇ってくれませんかねえ〜? 笑」

<支配人> 「いいですよ。ちょうど今、スタッフ募集中です。長屋さんなら信用有るし。じゃあ一応履歴書だけ持って来て下さい。本社に送るんで」

<自分>  「え! ホントですか! こんな突然で、いきなり雇ってもらえるんですか?」

<支配人> 「はいはい、ダイジョウブです。長屋さんとは付き合いも長いし、
私これでも一応支配人ですから、人を見る目は有るんです、笑。
じゃあ、〇月〇日の〇曜日から勤務ということでイイですか?」

<自分>  「えー、マジで〜? やったーー! お願いします!」

 てな具合で、挨拶に行っただけのつもりだったのに、その30分ほどの会話で八ヶ岳での仕事が決まったのである。なんたる幸運。
やっぱり自分は運がイイ。



 そして勤め始めたのだが、最初は、普通の日勤のフロント・マンだった。朝9時に出勤して、夕方の6時に退勤。午前中のチェック・アウト、午後のチェック・イン、売店のレジ打ち、客への観光案内、クレーム対応などで目まぐるしく働いて、退勤する頃には、けっこうヘトヘトだった。

 そんなフロント・マンとしての仕事が1年を過ぎた頃、社内でのいろいろな人事異動があり、支配人から自分に、夜勤のナイト・フロントをやってくれないか、という話が来た。


「長屋さん、突然ですが、ナイト・フロントやって戴けませんか? 今月で今のナイトの〇〇さんがヤメてしまうんで、誰か他にナイトさんやってもらいたいんですが、長屋さんどうですか。実は、ココだけの話ですけど、ナイトはかなり割りのいい仕事ですよ〜。勤務時間が夜からなので、生活は昼夜逆転にはなりますけど、仕事としては実に楽なのです。ハッキリ言って、ココに寝に来るだけの仕事です。もし昼夜逆転生活が気にならないのなら、本当にお薦めです。ナイトのポジションを狙ってる人は、社内でもけっこう居るんですよ。」


冬は薪ストーブも焚く



 

ここが休憩室





休憩に入るとトレーナーに着替える
 自分はもとはバーのマスターだった。夕方から店をオープンさせて、クローズは深夜2時に及ぶ。時には朝日の中を帰宅する事もあった。つまり、名古屋に居る頃は、ずっと昼夜逆転生活だった。だから、ここでも夜の勤務は、なんの抵抗もない。

 長年の付き合いで信用有る支配人が、「楽で割りがイイ仕事で、お薦めだ」と言うので、二つ返事で承諾した。そして、ナイト・フロントの夜勤の生活が始まったのである。

 先にも書いたように、夜勤と言っても、大半が寝ていれる。つまり完全に昼夜逆転したわけではない。夜勤明けでも、多少の寝不足気味ではあるが、昼間はプライベートの行動が十分出来るのだ。

 要するに、家で寝るか、勤務先のホテルで寝るかの違い。ただし、同じ寝るでも、勤務先のホテルで寝れば、熟睡は出来ないものの、それだけで収入になるという大きな違いが有る。

 確かに、支配人が言った通り、オイシイ仕事なのであった。



 そんな夜勤を9年続けてきた。昼間のフロント時代を含めると、このホテルでの勤務は、ちょうど10年になる。その間に、還暦を迎えたのだが、夜勤には定年退職というものが無く、なんとなく仕事を続けていた。

 でも、頭のどこかで、ヤメ時、潮時、という事を考えはじめてていた。残りの人生、自由に気儘に暮らしたいと思い始めていた。ただ、コレと言ってヤメる理由も無く、ダラダラと続けていた。

 そんな時に、今回の「ナイト・ポジションを無くす」という決定がなされたのだ。なぜ、「ナイト」を無くすのか。それには次のような流れが有った。

 元々このホテルは、東京に本社があるリゾート・ホテル・チェーンのひとつ。その本社は、自分が勤めた10年の間にも数回、買収されたり合併されたりで、経営母体が変わってきた。経営が変わるごとに、色々と経営方針や規則、体制や人事が変わった。今回もまた、本社が別会社に変わって起きた事だった。

 新しい会社は、「ホテルの無人化」を進める事にしたのだ。事実、今時のホテルは、予約もネットで、カード支払い。チェック・インもチェック・アウトも対人ではなく機械相手に無人で、オール・セルフで行われるところが増えつつあるという。


簡易ベッドの上に持参の寝袋





閑な時間はテレビを見て過ごす
 つまり、大規模な人員削減を計画していた。売店もセルフ・レジにして無人化、フロントも機械任せの無人化。その手始めに、ナイト・タイムの無人化! そこに自分はバッチリ嵌まっていたわけだ。

 でも、会社側は企業印象が落ちるのを避けるため、「クビ」とは言いたくない。だから部署変えを提案してきた。部署変えの先として告げられたのは、「大浴場の清掃」「敷地内の清掃ゴミ拾い」「客室の清掃」「敷地内公衆トイレの清掃」などで、つまり『清掃員』になれば、続けて雇うということだった。

 前々から噂で、清掃の仕事はかなりキツイ仕事だと聞いていた。還暦を過ぎたこの歳で今更、経験の無い肉体労働の清掃員などやりたいわけがない。だが、それがイヤなら、自主退職するしかない、という形。まあ、一言で言えば、体のいい「クビ」である。





 お気に入りの焼肉屋





今夜は退職祝い 


よーこが御馳走してくれる 



 自分をこのホテルに雇ってくれた仲の良かった支配人は、とっくの昔に定年退職を迎え、今は軽井沢に新築の家を建て、悠々自適に暮らしている。

 自分も先に書いたように、ヤメ時の切っ掛けを探していたのも事実。これは、或る意味、天の啓示だと思い、契約終了と共に退職した。
もちろん、退職金などというものは一切無い。

 図らずも、カッキリ10年務めた事になった。いろいろお世話になったし、客だった時代を含め、多くの思い出が詰まっている。だから、恨んだり怒ったりする気持ちはまったくない。むしろ、感謝しかない。

 しかし、リゾート・ホテルが深夜無人となり、もし深夜に急なトラブルが発生した場合、その対応はダイジョウブなのだろうか、今後どうするつもりだろう、などと余計な心配までしたものである。まあ、余計なお世話だが。

 突然の話にビックリし、会社側の強引さに呆れたものの、自分にとってはイイ切っ掛けだったと思っている。


カンパーイ!



 

ここのお肉はオイシイのよ〜
 

ちょっぴりお値段張るけどね





よーこは心から喜んでくれた
 よーこは、退職を非常に喜んでくれた。
「今まで、よく働いてきたねえ〜、ご苦労様でしたー」と。

 お気に入りの焼肉屋で、退職祝いのささやかなパーティーをした。
「好きな物を好きなだけ食べて、どんどん呑んでねー! 今夜は私のおごりだよー!」と、心から祝ってくれた。

 これで、悠々自適の生活が始まった。理想だった、自由で気儘な生活を送れる。 ・・・と、こんな事を言うと、如何にも余裕が有りそうで、一部の人間からまた、妬みや嫉み、つまり嫉妬の種を自ら撒いたように思われるだろう。

 しかし、魂の自由を手に入れたものの、経済的自由を手に入れたわけではない。金銭的な余裕などまったくない。貯えも無い、ただの無職になっただけだから。

 これが羨ましいと言うのであれば、誰でもスグにこうなれるはずだ。
ただ、『やりたい事をやりたいようにやる』という信念と、その勇気さえあれば。

 無欲で、無心の境地に遊べる、つつましい生活さえ出来れば、余計な金なんて、たいして重要ではないのだ。





 自分が大好きな小説家に、内田百閧ニいう作家が居る。その百關謳カ曰く、「金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、主観に映える相(すがた)に過ぎない。更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、これを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である」と。

 世間の人々は、大型連休であるゴールデン・ウィークが終わったようだが、自分はこれから、ずーっとずーっと、
ずーっと、ゴールデン・ウィークだわさ。  『貧乏閑有』

 少し生活が落ち着いたら、伊勢まで行って、わが師である野呂先生にお逢い出来たら幸いと思っている。
久しぶりに、先生とゆっくり、朝まで酒を酌み交わしたい。





お世話になりました





令和八年 ゴールデン・ウィーク明け




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