奥 駈 行 工事中
蛇之倉七尾山では、昭和60(西暦1985年)年から63年にかけて、戸閉の後4回に分けて大峯奥駈行を行いました。
1回目は山上ヶ岳が入っていたので男性限定でありましたが、2回目以降は女性の参加が可能となり、61年には5名が、62年には10名の女性が参加されました。63年には、台風の接近による大雨のため、予定が変更され、女性参加コースは中止されました。
ここに集められた記事は、『まこと誌』と『大峰南奥駈集録書』(2冊)から抜粋されたものです。神直先生が信者様や弟子達とどの様に接しておられたかを知る有力な手掛かりになると思われます。
てんかのしゅんげん おおみねがたけ
ちょうじゅうかよわぬ ななじゅうごなびき
わがこたずねもって
わりょくをやしないゆかすわ
こせんのおしえをみにまなべば
こうせのひとにつたえることかなり
・修嶮(しゅげん)
本来は「修験」なのでしょうが、今回は険しい山に赴くという意味をこめて「修嶮」にされたのだろうと思います。
・峻と嶮
「峻(シュン)」も「嶮(ケン)」も、山が高く険しいことを表しております。
・靡(なびき) 奥駈修行の行場のこと
・吾小(わがこ)
「吾が小」とは、「吾が弟子達」の意味だと思われます。神直先生より御年配の方に「子」という文字を当てるのを躊躇されたので、「小」にしたものと思われます。
・征 ゆく。旅に出る。
〈 通 釈 〉
この日本国に於いて、高く険しいことで有名な大峰山。その(奥駈)七十五行場には、鳥や獣でさえ容易に往来できない。そのような所に吾が弟子達を行かせ、和を実践させようとするのは、いにしえの聖者方の教えを、(頭ではなく) 身を以って学んだならば、後に続く者達に(真和を)伝えることが可能となるからである。
〇「和」
必示小天狗様(教祖神直先生)によりますと、わが国最初の憲法である憲法十七条を起草されたのは役之行者尊だったとのことです。この憲法の第一条には、「和をもって貴しとし」とあります。「和」が第一条におかれたことから、行者尊は「和」を最高の価値としておられることが分かります。
行者尊が創始された修験道の行は、全てこの「和」を実践することに向けられたものです。ここで言う、行者尊の「和」とは、人間ばかりでなく、動植物ばかりでなく、いわゆる万物万精(象ではない)すなわち宇宙を念頭に置いたものです。山川草木悉皆成仏の世界観です。
以上より、奥駈行の眼目は、単独で行うのか、複数で行うのか、山小屋に宿泊するのか等々によって、色々な形態がございますが、いずれにいたしましても、「和力」を鍛えることにございます。
第一回奥駈行
『まことのこころ』第27号(昭和61年/西暦1986年掲載)
深山の浄土を走り抜けて(一)牧野仙一
昭和60年実施 総勢14名
紀伊半島を南北に縦断して延々とのびる秘境・大峰山系。この山域に一筋の道のあることはあまり知られていない。それは隠されたメインストリートと呼んでもいいだろう。修験行者たちが歩く「奥駈け道」がそれである。
奥駈け道は、大峰山系の北の端にある吉野山から南の果ての玉置山(たまきさん)を結ぶ。修験道最高の練行(れんぎょう)と位置付けられる「大峰奥駈け修行」の行者たちは今もこの奥駈け道を走破し、太平洋の波濤が押し寄せる熊野三山に足をのばす。この間百八キロ。七十五カ所の聖地・行場を巡る。
ただ、この街道は極めて険しいことをもって、他の街道とは大いに異なる。体力の限りを尽くさないと、完走はまずおぼつかない。強靭なる精神力を持ってしてはじめて歩き通せる難路である。人を寄せつけぬ深山ではあるが、この山脈そのものが行者にとっては礼拝の対象であり、山こそが神々である。つまり、修験の道場そのものであり、どんなに大きな堂塔伽藍といえども比較の対象にならぬほど、スケールの大きい伽藍だといえよう。
奥駈け道の歴史は、大峰山そのものの歴史であり、開祖役之行者尊によって始まる。今から、約千四百年前である。奥駈け道には、前述のように、熊野から順に計七十五カ所の行場・霊場がある。これを「七十五靡(なびき)」と称す。役之行者尊の威徳に「なびく」ことから名付けられたといわれる。奥駈けはこの聖地巡拝の旅であり、大峰山系は世界最大の道場なのだ。しかし、奥駈け修業は単なる巡拝旅行とは違う。何故なら奥駈け行は「峰中十の行」をすることに他ならぬからだ。これがために山中を縦走するのだ。すなわち、
一、地獄行(寒暑風雨に耐える)
二、餓鬼行(水穀を断ち苦しみを克服する)
三、畜生行(重荷を負い、難所を乗り越え、先達の命に従う)
四、修羅行(体力と精神力を鍛える)
五、人間行(自身を反省、六根清浄に生きる道を開く)
六、天道行(山頂に至り、山の神秘に接し歓喜法悦、寿命延年感謝)
七、声聞行(雨や風など自然に発生する音を聞き悟りを開く)
八、縁覚行(縁によって生と死を悟る)
九、菩薩行(独悟の練行より進んで慈悲心を発して他を助ける)
十、仏 行(妙覚の仏地にはいり、即身即仏の境地に達する)
以上、十の行を実践することである。奥駈け行が修験道最難最高の練行といわれるゆえんである。
さて、昨年(昭和60年)九月、私は幸運にも大峰蛇之倉七尾山主催の奥駈け行に参加させていただく機会にめぐまれました。ここに、今回の奥駈け行の記録をご報告させていただきます。まさに、「深山の浄土を走り抜けた」記録を。
出発前夜(九月二十三日)
本山戸閉式を終え、夕食後、信徒集会所に奥駈け行参加者全員が顔を合わせる。
・奉行 山口廣開先生 ・副奉行 山口一閃先生
・記録 樋川由次先生
・食料係 水口一真先生 徳田秀樹先生
・水係 山口基樹先生 多本矩利先生
・薪係 下宮幸司先生(写真係兼務) 高橋隆先生
・設営係 丹下和幸先生 ・道具係 堀勇治先生
・救急係 植田多蔵先生 ・道標係 牧野仙一
以上 14名
奉行の山口廣開先生から奥駈け修業の心得と注意事項が言い渡される。今回の参加者はほとんど全員が初めての経験であり、たった一人の奥駈け体験者である副奉行山口一閃先生も20数年前のことであるから、いくら用意周到な準備をしたといっても不測の事態も予想される。注意を聞く参加者達の目も真剣にならざるを得ない。
次に各人の荷物の点検だ。現在一般で行われている奥駈け行は、山小屋から山小屋へと宿を取るため装備は非常に簡単で、しかも食料品等も強力(ごうりき)に任せるために各人の荷物は極端に少なくなっていると聞く。しかし、今回我々が予定しているのは野宿であり、食料品・水(連日の記録的晴天続きで山は渇水状態だった)・テント・炊事用具・作業用の道具等など非常にたくさんの装備が必要となった。そのために個人的な荷物は極力少なくする必要がある。もちろん、修業であるから、毛布とか何枚もの着替えも許されない。せいぜい、上下の下着一枚とセーター一枚、くつ下一組の程度のものだ。水がないので洗面用具も不要。あとはカッパだけ。個人の荷物はスーパーの小さな 買い物袋に納まってしまうのだが、それでも全員分をまとめると大きなリュック二個分にもなった。
一人一個のリュックを背負うように分担しても一個あたり10キロから20キロの重量になってしまう。参加者全員が猛者揃いというわけではないので不安が残る。
顔合わせとミーテイングの後、激しい雨が降り始めた。明日の天気を誰もが心配する。「雨でなければいいがなぁ」ポツリと誰かがつぶやく。明朝は早い。明日からは単なる山登りではなく、信仰一途の曼荼羅行脚の始まりなのだ。不安と期待を胸に各々が寝所へと散っていった。私は布団にもぐり込むと、外の激しい雨音を聞きながら、いつしか眠ってしまっていた。
第一日目(九月二十四日)
法螺三唱 -「ヴウオオー ヴウオオー」- 法螺貝の低く唸るような音が御神殿に響き渡る。「一同、二拝二拍手一拝!」奉行山口廣開先生の声で、緊張した空気がさらに張りつめられる。いよいよ出発の時が来た。
我々の行なおうとしている奥駈けは逆峰(ぎゃくぶ)と言われているもので、熊野から吉野に向かうのを順峰(じゅんぶ)と言う。洞川から登るため 「七十五靡」のうち六十七番目の山上ヶ岳(大峰山)から始まる。
季節は九月下旬。近畿地方、最高峰の峰々を野営するには季節外れ である(編9月23日戸閉式の後なのでやむをえないのです)。通常行なわれる奥駈けは夏場である。夜の冷え込みも相当のものと予想される。今回企画された奥駈け行の厳しさを物語る一つと言えよう。
「シュッパーツ(出発)」。奉行の号令が黒い群像となって不動の姿勢をとる隊列に飛んだ。千里の道も一歩からとはよく言ったものだ。この一歩から奥駈け行のドラマが幕を開けたのだった。
まず嫁ケ茶屋地蔵堂・蛇之倉不動明王尊で道中の安全を祈願しての勤行(ごんぎょう)。手に持つ錫杖の金属音も読経の声もリズミカルだ。
教祖神直先生ご一同のお見送りを背にし、我々十四名は小雨の中を山上ヶ岳を目指した。
我々が大橋茶屋を出発したのは午前八時半過ぎ。ここからは登り道だ。雨は上がっているが、少し霧がかかり肌寒さを感じる。山上ヶ岳までの道はこれまで何度か経験があるので自然とペースも上がってくる。「一ノ世茶屋」を過ぎ「一本松茶屋」で小休止。荷物のせいで、すでに背中は汗でびっしょり濡れている。あまり休み過ぎると体調を崩すもとになりかねない。すぐ出発だ。
「役之行者のお助け水」では必ず小休止を取るが、今回は連日の晴天続きで「涸れることのない霊水」が、ほとんどカラの状態だった。これからの水調達が不安になる。
霧の中に、ボーッと小屋が浮かびあがる様に見えてきた。洞辻茶屋だ。ここで吉野道と洞川道が合流する。時刻は午前十時半。すでに登り始めてから二時間以上経っている。
洞辻茶屋を出て、しばらく原生林を行くと大峰山寺境内に入る。そこは表行場の始まりでもある。雨は上がったが風が強くなってきた。頭上を飛んでいたガスがいつの間にか眼下に見える。山上ヶ岳の主稜に取り付いているからだ。登るごとにぐんぐん高度を稼ぐ。「油こぼし」の難所を乗り越えた我々の前に巨岩が立ちはだかった。十メートルくらいの断崖だろうか。岩の頂上はガスに覆われてみることができない。鐘掛け岩だ。新客さん達は鎖をたどって頂上にたどり着く。ここに立つと四周の遠望が素晴らしいのだが、惜しいことにガスで隠れて何も見えなかった。
ここまで来ると山上ヶ岳も頂上をきわめたのと同じだ。もうたいした登りはない。
次に「西の覗き(のぞき)」行場に到着する。大峯修験で必ず登場するのが、この西の覗きで展開される捨身行である。岩頭に立って下をのぞくとめまいがしそうな大絶壁だ。その度肝を抜く荒行は大峰修験のシンボル的存在として喧伝されているところだ。しかし、今は戸閉めの期間に入ったため(戸開け期間は5月3日~9月23日) 行場案内の山 先達もいない。ただ風の音だけが聞こえるのみだ。―
「ありがたや西の覗きに懺悔して弥陀の浄土に入(い)るぞうれしき」
雨に濡れた樹林を抜け、等覚門をくぐると急に視界が広がった。そこには威容を誇る大峰山護持院の参籠所群が甍(いらか) を接してそびえ立っていた。
法螺貝の音が低く、そして高く霊峰にこだまする。大峰山本堂に到着した。ここに、宇陀上皇、白河上皇が立った。御堂関白藤原道長、関白左大臣藤原頼通らの公卿や高僧が立った。そして幾百万とも知れぬ庶民が重畳(ちょうじょう)たる山岳を乗り越えて参拝した。そして今、我々がここに立った。
現在の本堂は元禄四年(1691)に再建されたもので、昭和の大修理中である。黄金の仏像が出土したのは記憶に新しいところだ。我々は仮本堂の前で勤行を済ませた後、工事用の現場事務所で昼食を取ることにした。今朝作って頂いたおにぎりを頬張っている時だった。突然ものすごい音を立てて雨が降り始める。「とうとう本降りか」ここまでよく天気が持ってくれたものだと、神様に感謝する。が、さらに不思議なことに昼食をすまして外に出ると、あの雨が止んでいるではないか。まさに神のご加護だとしか言いようがない。
ここで、事前に架線で上げるよう依頼してあった荷物を受け取る。隊員全員の肩に荷物が重くのしかかる。その上、スコップ・鍬・靡(行所)に立てる大錫杖(だいしゃくじょう)を手にする者もいる。まだ昼過ぎだというのに立ち込める霧のためあたりは薄暗く、吐く息は白い。いよいよここから先は、参加者のほとんど全員にとって未知の世界となる。肌寒さも手伝ってか、全身が緊張するのを感じる。
まだ誰もこの時は、今回の奥駈け行が予想以上に困難で厳しいものになるとは知らなかった。今、やっと「深山の浄土」の入り口にたどりついたばかり。ドラマはこれから始まる。 つづく
深山の浄土を走り抜けて(二)
第28号 西暦1986年掲載
我々一行は霧の中、山上ヶ岳を後にして一路今夜の宿「小篠の宿」を目指して出発した。ここからは極端に道が細くなる。山道には岩石が露出し、倒木が行く手をふさぐ。ちょっとした油断が転倒事故につながる。
「段差、チューイ(注意)」……「根っこ、チューイ」
「頭上、枝あり」……「路肩、チューイ」……
前方から次々と申し送りで「警戒警報」が飛ぶ。黙々と歩を進めたと報告した方がそれらしいのだが、本当は実に騒々しい。腰の鈴が一斉に鳴る。万一、熊が眠っていたとしてもこれでは一目散に逃げ出すであろう。
脇目も振らず歩き続けること約一時間。小篠の宿に到着した。ここで、今夜の宿をとる。勤行を済ませた後、さっそく野営の準備だ。「七十五 靡」の六十五番行所にあたる「小篠の宿」は、修験道当山 ・本山両派の最極秘所と言われる大峰山寺奥之院である。
小篠の宿が女人禁制(にょにんきんぜい)をめぐる「決戦場」となったことはあまり知られていない。戦後間もない昭和二十一年「女人禁制」の掟を千三百年にわたって守り続けてきた修験者を震撼させる大事件がここで起きた。GHQ資源調査員の肩書きを持つアメリカ女性を先頭にした女性軍と洞川衆の結成した阻止隊が、一触即発の不穏な状態に陥ったのだった。しかし、ここでも神の御意志は、戦後日本に君臨していたGHQマッカーサー司令部をして、次のような文章を出させた。
「大峯山寺ワ千二百年以上、女人禁制ノ伝統ヲ確守シ、此山ノ信仰ヲ保持シタル事ヲ認メ我々占領軍ハ日本宗教ノ権利ト伝統ヲ尊重スルモノナリ。 奈良軍政部神社寺院課、陸軍中佐 S・ヘンダーソン」
このGHQ発行の日英両文の文書は今も大切に保存されている。
まだあたりは明るく、雨が降ったお蔭で近くを流れる谷川の水も豊富にある。参拝記念の大錫杖を立てる者、薪(たきぎ)を集める者、夕食の準備をする者、野営テントを設営する者等、各人がテキパキと作業に当たる。
ここで一番困ったことは、木が湿っているのと生木が多くなかなか薪に火が着かなかったことである。「山に入ったら、山のやり方がある」と山口一閃副奉行のご指導で問題はアッサリ片付いてしまう。長年山とともに生きてこられた副奉行の含蓄に富んだお言葉に大いに考えさせられました。
自分達で苦労して炊いた御飯の味は格別であった。こうやって野外で食事を取るのは何年ぶりだろうか……。夕食が終わるか終わらないかのうちに、また雨が降り出す。今度は大ぶりだ。ザー、ザーと木にもテントにも大粒の雨が降りそそぐ。しばらくは止みそうになく、日もとっぷりと暮れ、カンテラの灯りのみがボーっと明るい。何もすることがないのでテントに入り込むが、眠るには時間が早い。そのうち、雨がテントの中に入り込み中は水浸し。雨衣を着て横になる。夜の冷気が雨と共に体を襲ってくる。ウトウトと眠ってはあまりの寒さに目が覚めてしまう。焚火の中に石を入れ、あったまった石をアンカ代わりにするが、それでも寒い。外は谷川の水が溢れ大きな川となり、テントのすぐ目の前まで迫ってきている。幸い、テントは小高い所に設置したため水流に巻き込まれることはなかった。
第二日目(九月二十五日)
こうして眠れない夜は明けた。誰もが皆寝不足のせいで瞼が腫れている。頭が重く、頭痛がする。風邪を引いたのだろうか?しかし、まだ奥駈け行は始まったばかりだ。後には絶対戻れない。皆に迷惑をかけられない。気力で押し通すだけだ。食欲はなかったが、無理矢理お粥を口に流し込む。でなければ体がもたなくなる。
慌しく跡片付けを済ませて出発だ。相変わらず外気は冷たく、小雨の中を歩き始める。背中の荷物は昨日と変わらないのに呪わしいほどに重く、肩に食い込む。だが、止まることは許されない。石ころだらけの地面をにらみ、ひたすら歩き続ける。一切の俗事を忘却して歩くことだけに、精魂を傾ける。汗が一挙に噴き出してくる。
山行は自分自身との真剣勝負で、だれに頼ることもできない。また、助けようにも助けられない。自らに問いかけ、その答えも自分で出す。支配者も被支配者も存在せぬ領域を我々は歩いているのだった。
急斜面に次ぐ急斜面の登り。霧と雨で周りは何も見えない。
阿弥陀が森(ここで女人結界)―脇ノ宿跡(わきのやどあと)―経箱石(奥州平泉の藤原氏が経文を納めたという箱石が断崖絶壁に彫られてあった)― 小普賢岳―大普賢岳―弥勒ケ岳を経て、薩摩の殿様も転んだという急坂の難所「サツマコロビ」を下り、稚児泊まり。途中で何度か小休止。私は、経箱石の分れ道で小休止した時に食べたチョコレートの味は一生忘れない。朝、お粥だったので空腹だったのと疲れが重なり、チョコレートはまさに強力なカンフル注射のような効果だった。
昼食もまた、一苦労だった。時間もなく、雨が降っていたのでロクに火も通っていない固い餅を頬張った。
見晴らしの良いはずの各頂上では霧のため周囲は全く見えず、頂上にたどり着いたかどうかさえも分らないあり様だ。
稚児泊まりは原生林に包まれ、「七ツ池」という秘境がある。その昔、大蛇が棲んでいたといい、大峯修験道中興の祖・聖宝理源大師尊が退治したという。残念ながら今回「七ツ池」は発見できなかった。ここをたって、しばらくすると国見岳頂上に到着した。
ここも相変わらず霧だった……。絶壁の岩肌に腰掛けて皆が小休止していた時、一人が霧に向かって、「オ~イ、霧ヨ。晴れてくれ-」と叫んだ、その時だった。何と、本当に霧が見る見るうちに消えていくではないか!自然と誰からともなく拍手がおこる。拍手の輪が広がり、しまいには全員が拍手を送っていた。「オ~オッ」遠くの山並みが見えてきた。近くは真下の道も見えてきた。瞬く間に霧は消え、三百六十度さえぎるもののない展望場となる。延々と連なる大峰山系の諸峰が緑色の波を打ち、眼下には 大峡谷が広がり、吸い込まれそうだ。今まで何も見えなかっただけに感激もひとしおだ。ただ、ただ感動。今まで我々が歩いてきた峰々が見える。自分でもびっくりする様な遠くに大峰山上ヶ岳がある。小普賢岳・大普賢岳のあまりの険しさにも驚かされた。苦しかったはずである。あれだけのところを歩いてきたのだから。遠くにこれから登る弥山(千八百九十五メートル)が巨大な山容を見せて鎮座している。
急斜面の難路を下り一路行者還り岳へと向かう。開祖役之行者尊が一度山上ヶ岳まで引き返したという行者還り岳の断崖から川迫川(こうせがわ)渓谷を見下ろし、今夜の宿である行者還山小屋に着いた時は日も暮れてあたりは薄暗くなっていた。もう疲れてクタクタ。今日も雨のお蔭で谷の水がコンコンと湧き出し水不足の心配だけは不要だった。万一、ここで水がなかったら、はるか下の川まで半日もかけて取りに行かねばならないはめになるところだった。
薪作りをし、夕食をすませた後は皆、死んだ様に眠り込んでしまった。みんなの顔は、汗と雨と泥で真っ黒。しかし、今夜は山小屋だから雨が漏れる心配だけはいらない。焚火の煙が小屋中に満ち、目にしみて涙が出ても山の上の天国の様だった。これで今夜はゆっくり眠れる……。外はものすごい霧。一メートル前すら分らない。明日は晴れるかもしれない。 つづく
深山の浄土を走り抜けて(三)第29号
第三日目(九月二十六日)
小鳥のさえずる声で目を覚まし外に出る。深い霧の真上に秋の青空がボンヤリと透けて見えた。昨晩はぐっすりと眠れたお蔭で気力は充実しているものの体のあちこちに、痛みを感じる。今日はこの奥駈け道中最高峰の峰々を歩く予定だ。一体どれ位歩き続ければいいのだろうか?フトそんな思いが脳裡をかすめる。テキパキと朝食を済ませ、さあ出発!!歩き始めたらもう余計なことを考える余裕などない。朝露に濡れた大笹の間を歩き続ける。目前に弥山(1895メートル)が巨大な山容を見せて鎮座する。登ったり下ったりの起伏を超えて「一の峠」にたどり着いた。相変わらず目前の弥山は容易に我々一行を受け入れてくれそうにない。ここから方向を真西に向かって前進。「石休みの宿跡」を越え、弥山真下の「聖宝宿跡」に到着。青銅製の立派な聖宝理源大師座像が祀ってある。
「ゴンギョー(勤行)!」奉行が全山伏に号令を発した。錫杖の金属音が空を切り、法螺貝の音が低く高く山々に鳴り渡った。男たちの読経が始まり、その低い声が山に反響する。瞑目し、あるいは両眼をカッと見開いて一心に読経する勤行が始まると男たちの表情が厳粛なものへと一転するのがわかる。下界では垣間見ることさえ難しい顔つきに違いない。いい表情だ。
奥駈けは深山の跋渉(ばっしょう)であるが、勤行また勤行。般若心経に明け、般若心経に暮れる日々である。山上ヶ岳を南下すると、礼拝に供する堂宇は一切存在せぬ。礼拝するのは、はるかにかすむ山岳であり、自然が造形した巨岩、巨樹である。行者は、大峰山系そのものが道場だと考える。人工のどんな大建築物も大自然の前では瑣末(さまつ)なものでしかない。
勤行に際し、持参した碑伝(ひで、ひでん)を巨樹のツルに差しはさみ、全員がこれに向かって読経する。巨樹には、幾年・幾十年前に登拝した先人の残した碑伝が群がるようにして取り付いている。風雨にさらされて墨はすでに流れ落ち、朽ち果てたものの方が多い。幾万・幾十万の修験者達がここに足跡を記し、祈りを捧げてきたことを如実に証明している。碑伝はヒノキの板でこしらえたもので、墨痕鮮(ぼっこんあざ)やかに「奉修行大峯奥駈天下泰平如意昭和六十年九月吉祥日大峰蛇之倉七尾山」と記されている。百枚近い碑伝を背中にかつぎ、行所の巨樹や巨岩に次々と立てかけていくのだ。我々の碑伝も、いずれ朽ち果てて土になるだろう。人生の無常を思わせる記念碑だ。
聖宝宿跡で小休止。今日は天気がいいだけに喉がかわく。大切な水で全員が少しずつ喉をうるおした。ここから山頂までは「胸つき八丁」と言われる峰中随一の急坂である。一歩一歩足を運ぶ毎に少しずつ高度を稼ぐ。今まで樹海で見えなかった遠くの大台ヶ原山系が背中に広がってゆく。しかし、雄大な眺望を楽しむことよりこの急な坂を登ることの方が先だ。たった二キロほどの山道だが、一時間はたっぷりかかって山頂にたどりついた。それだけに登りきった感動もひとしおだ。
弥山頂上には天川弁財天の奥之院である御社が祀ってある。よくもまあこんな山頂にこんな立派な建物が出来たものだと感心させられる。
弥山の山小屋前で小休止した後、目前に天を突き刺すようにそびえる八経ヶ岳へと向かう。原生林が幾百本・幾千本も立ち枯れした間を通り抜ける。何とも奇妙な風景で、今まで見たこともない。自然とは 不思議なものを次から次へと創り上げてゆくものだ。まるで、原始時代にでも引き戻されたような気になってくる。時折、倒れて朽ちた大木が行く手を塞ぎ、また、風雨で小径が大きく抉(えぐ)られている。
やがて私達は近畿地方最高峰の八経ヶ岳(1914m)の頂上に達した。役之行者尊がこの山頂に八巻の経文を埋めたという。三百六十度視界をさえぎるものは何もない。山頂の突風を受けながら、我々は自然の大パノラマを大いに満喫した。よくこんな所まで登って来たものだと自分ながら感心する。
明星岳を過ぎたあたりから、山路はなだらかな起伏に変わった。それは果てしない樹海の始まりでもあった。奉納用の大錫杖を肩に乗せているため、木の小枝がまとわりついてひっくり返りそうになる。その上、背中の荷物が肩に食い込む。思うように前進出来ない。
ザッザ、ザーッ!!アッ、落ちた!!
一瞬、みんなの顔が緊張で青ざめる。隊員の一人が足を滑らせたのだ。下までは一体何百mあるか分からない程の急斜面で、地肌がむき出しになっている。しかも、この辺りは「七日迷い」と言って、一度 迷い込んだら二度と出られないと言われるほど危険な場所である。
皆いっせいに駆け寄る。幸いにも下までは転落せず、すぐ真下で止まっていた。「良かった、良かった」と胸をなでおろす。
薄暗くなりかけた樹林を我々は突き進む。霧がだんだんと濃くなりよく前が見えない。これ以上無理をして進むと危険だ。今晩は大事を取って「舟ノ峠」で野営することにする。丁度、大きな舟底のような形をした窪地で、野営には持ってこいだ。只、この辺には全く水が無いから、水は大切にしなくてはいけない。おかげで、晩ご飯を泥だらけの真っ黒な手で食べるハメになったが、そんなことは全く気にならない程空腹だった。
今夜は雨こそ降らないものの、高山の冷え込みは厳しく、第一夜と同じくとても寒くておちおちとは眠っていられない。かがり火を焚き、皆がその回りに固まるようにして眠りについた。時々、不気味な獣の鳴き声が聞こえてくる。顔を冷たい風がなでるようにして吹き抜ける……。
第四日目(九月二十七日)
午前四時起床。大急ぎで朝食をすませ、出発。まだ真っ暗だ。風景のない空間を我々はひたすら歩く。夜露に濡れたブッシュ(低木)をかき分けての縦走で、ズボンはぐっしょり濡れて重い。頭はまだ眠りから覚めていない。懐中電灯の明かりを頼りに、何も考えずに歩き続ける。何度もつまづき、倒れながらの前進だ。徐々に東の空が明るくなっていく様は、何とも言えず 神々しい。「神に護られ、神によって生かされているのだ」という思いが自然と湧いてきた。こう思ったのは決して私だけではないだろう。
西方に、岩肌をむき出しにした七面山が望見できる。七方どころから見ても同じ山相をしているので、この名がついたという。喉が渇く。雨曇りの空。今にも降りむ出しそうで降らないと思っていたら小雨になってきた。すかさず頭巾(ときん?)で歩きながら葉っぱにたまる雨粒をすくって、口を湿らす。何とも言えずおいしい。
仏生岳(1804m)の横駆けをした我々の前に、奇岩巨石の世界が展開した。ここから釈迦ヶ岳に至る尾根筋は見通しも利き、自然が造形した巨大な岩の彫刻が望める。この辺りは、大峰山系にあって、最も巨岩がそそり立つ地帯である。
孔雀岳(1821m)の西方を巻いた私たちの眼前に大渓谷が展開した。
勇壮な景観だ。土を蹴ると天空にそのまま駆け上れるような錯覚におそわれる。「孔雀覗 くじゃくのぞき」といわれ、大峰山系の東側にパックリと口をあけた峡谷である。峡谷のいたる所に巨岩が直立する。その様子は、説法を聞いて着座する阿羅漢を思わせ、「五百羅漢」と命名されている。峰中屈指の威容といってよいだろう。
かつて山伏が帯刀していたことを物語る「小尻返し」の岩場を超え、左右の巨岩をかいくぐる「貝摺り」の岩場に至った。法螺師の持つ法螺貝が岩にすり当たるほどの狭さを如実に物語る。次は「両部分け」の岩場だ。ここを境に北方の大峰山系を「金剛界」といい、熊野までの南部山岳地帯を「胎蔵界」という。そのちょうど境界にあたるのが、この「両部分け」だ。岩の尾根がここで突然切れて、また続く。岩の下へは鎖をつたわって降下する。
「岩場の冒険」が終ると道は平坦な下りに変わる。すると右手の展望が急に開ける。大概の行者がここで足を止めるだろう。前方に現れた巨岩に見入ってしまうからだ。その巨岩は「阿吽の狛犬あうんのこまいぬ」と呼ばれている。なるほど狛犬に似ている。風雪が数千年・数万年の歳月をかけて造り上げた大彫刻だ。
次に私達を待っていたのは「掾の鼻 えんのはな」の岩頭だ。頭上に蔵王権現像が安置され、ここから槍の穂先のようにそそり立つ釈迦ヶ岳が間近く迫る。
「掾の鼻まわりて見れば釈迦ヶ岳 弥陀の浄土に入るぞうれしき」…
奇岩としてはこの他、大日岳を下りつめた「太古の辻」には「背くらべ石」という二つの石が、地面からニョッキリ顔を出す。左の方が ちょっぴり低く双方とも150センチ前後。なるほど二つの石が背丈を比べ合っているようだ。
ここをまっすぐ南へたどると天狗山、涅槃岳といった山並みが続くが、今は道がない。私達はここを左折して前鬼の小仲坊へ一気に下った。この途中に「二つ石」がある。高さは10mほど。音叉に似た格好でU字型の岩。それぞれ制吒迦童子、矜羯羅童子の名がある。……
急傾斜の登りのルートが延々と続く。一体どれだけ登ればいいんだろう。肩にのせた大錫杖が体全体を谷底へ引きずり込もうとしているようだ。
釈迦ヶ岳(1799m)の頂上に登りつめると突然目の前に巨大なお釈迦様像が現れる。台座から光背までの高さは約3.6mの大ブロンズ像だ。この大ブロンズ像がたった一人の男によって担ぎ上げられたというから、とても人間業とは思えない。大正十三年夏の事である。※
※たった一人で道をつくりながら、三分割して担ぎ上げたと伝えられている。
私達は一気に山を下った。前鬼の小仲坊まで下り一本やりである。それも相当急な下りで、自然と小走りになる。こんな状態が続き、完全に足を痛めてしまう。ひざがガクガクだ。
釈迦ヶ岳と大日岳のちょうど中間地帯に「深仙の宿」がある。周囲を原生林が取り囲む平坦地である。ここに小堂が建ち、中には神変大菩薩、不動明王、八大金剛童子が祀られている。
紀伊半島の背骨となって走る長大な大峰山系がこの深仙の宿で、北の金剛界(蔵王権現)と南の胎蔵界(熊野権現)の二つの地帯に分けられる。
ここから前鬼までは気の遠くなるような下り道であった。行けども行けども、下り、下り、下り。……
全身、汗と雨と泥だらけ。目は腫れ上がり髭は伸び放題。しかし、体力の限りを尽くしたその顔は晴れ晴れとしていた。
前鬼の里では教祖先生がお迎えに来ておられ、参加者全員が熱い思いにかられた。
ここで今回の奥駈け行は終了したが、半分が終わったに過ぎず、まだ熊野までの行程が残されている。やっと今、山を下ったばかりだというのに、もう想いは次の後半の奥駈け行に走っていた。それ程、この奥駈けは魅力的であった。
自然の前では人はなんと小さい存在なのかと思い知らされました。自然の中では、人は素朴で純粋な気持ちでいられることをも感じました。神は自然の中におられるのと同時に、人一人一人の中にもおられるのだということ。そして、私達は全ての者達に生かされているのだということ。今回の修行で様々なことを教えられました。
生きているということは何と素晴らしいことでしょう。深山の浄土を走り抜けた今、つくづくそう感じるのでした。 完
第二回奥駈行 一部のみ新聞に掲載
『大峰南奥駈集録書 前鬼山ー玉置山』
実施日 昭和61年9月24日~27日実施 総勢23名(内5名女性)
奉 行 山口廣開
副奉行 樋川由次 下宮幸司
道中奉行 上嶋武男 黒岩 稔 坂野秀憲 山口基樹 多本矩利
徳田秀樹 善田ケイコ
営繕奉行 堀 勇治 坂口邦彦 植田多三 藤村英明 高橋 隆
加藤藤子 前田美和 丸岡ふみ子 A・K
救護奉行 丹下和幸 松広健二 古川 晃 荒木みよ
〇原稿を寄せて頂いた先生方へ
皆様の原稿はどれもこれも素晴らしく、全て載せたいところでした。しかしながら、残念ながら紙幅の関係上、他の方の文章と内容が重複しているものについては不掲載とさせて頂きました。こちらの理解力不足だと思われますが、意味がよく分からない部分についても不掲載とさせて頂きました。なにとぞご理解いただけますようお願い申し上げます。 編集部
南奥駈修行に参加して 和歌山県 上嶋武男
『まことのこころ』第196号掲載
南奥駈修行に参加させて頂くことになり、9月23日、蛇之倉山の行場お清め式終了後、奥駈修行参加者全員が集まりまして、教祖先生より修行中の心得や、コースの説明等をして頂き名簿を頂きました。
名簿に目を通した時、私は驚きのあまり言葉もありませんでした。そこには道中奉行として私の名があるのです。いまだ未熟者の私には身に余る大役で不安にかられましたが、廣開先生、樋川先生から、お力添えの励ましの言葉を頂きまして、やっと心を落ち着かせることが出来ました。この上は、微力ながら精いっぱい努めようと決心いたしました。そして皆様にご挨拶とご協力をお願いいたしました。
いよいよ24日の出発の時が参りました。晴れ渡るすがすがしい朝まだきの中、教祖先生はじめ、本山皆様のお見送りを受けながら前鬼(下北山村)までは車で送って頂きました。
第1日目の目的地は太古の辻です。日頃は重い物を背にすることなど無い者ばかりですが、肩に食い込む荷物を背負っての難行苦行が始まりました。荷物に押しつぶされながらの道も〝六根清浄〟で歩きました。途中には山ヒルの多い処があり心配しましたが、無事通過できましてホッとしました。やがて太古の辻へ到着しました。第一夜を迎えるため幕営の準備にかかります。参加者それぞれに持ち場が決められているので、いち早く自分の責任を果たすべく取組みます。女性の参加者も男性にひけを取らず共に立ち働くのです。夜はあくまでも暗く、清く、高い空の星が輝くのみです。太古の世界へ導かれた実感が湧いてきました。幕営の中では絶えず火が焚かれていますが、夜明けが近づく頃の寒さは今迄に味わったことがないと異口同音につぶやく程、冷えびえとしたものです。また赤々と燃え続ける火の世話は、廣開先生と樋川先生が絶えず気を配って下さり、お二方共に眠られる時間があるのかと気になりました。
第一夜が無事に明け、すがすがしい朝が来ました。何より嬉しいことは晴天を頂いたことです。今日の目的地、持経宿跡へ向けて一同は晴れやかな顔を揃えて出発しました。地蔵岳から般若岳の間は、ダニの多い所として知られていますが一行には被害もなく、これも天の恵みかと感謝いたしました。証誠無漏岳 (しょじょむろうだけ) 降り坂より、阿須迦利岳(あすかりだけ)登りは、名だたる難所で殆ど垂直かと思われる岩場をよじ登り、降りる時はロープを頼りに後ずさりする有様です。全員励まし合い声をかけながら、必死で、この難所を通過しました。ここまでは特に足の痛む人もなく無事目的地に着きました。
第3日目、笠捨山を目ざし出発です。嬉しい事に今日も晴天です。途中の行仙岳は最も長い急坂路が続くのです。笹の葉や、木の根につかまりながら息も絶えだえに登る途中は、笠も捨てたくなると云われる処です。やっと葛川辻に着き、いつもの手順で幕営にかかります。
第4日目、いよいよ最終目的地、玉置山を目指して出発。一大難所の槍ヶ岳、地蔵岳がそびえ立っています。南奥駈中最大の難所である ここでは、荷物の引き上げや一同を無事に超えさせようと、道中副奉行が実に手際よく立ち働いてくれ、また一同も心を一つにして協力を惜しまず、無事に難所を越すことが出来ました。これも神に護られ、お互いの真心の顕れが一つになって成就出来たものと思います。改めて感謝いたしました。次の花折塚へ参りましたら、なんとそこに教祖 先生はじめ本山役員の方々が出迎えて下さったのです。一同感謝の念を新たにし、教祖先生の偉大なる親心に接し、熱き思いで胸がつまりました。よくぞ奥駈に参加せし幸せ者よと生きる喜びを感じました。玉置山でお勤めを済まし、暗闇の道を十津川に向かいました。下湯に は教祖先生の奥様はじめ、奥駈行を蔭から支えて下さった皆様が来られ、夕食の用意をして迎えてくれました。行中一同は、ひときわ懐かしく嬉しく思いました。
今思えば、奥駈行について当初より計画を練り、下見に行かれたり 万事にご配慮頂きました教祖先生はじめ、廣開先生の適切な指導と相まって、役員様方の陰からのご支援を頂いての、南奥駈修行の満行となったわけでございます。
いたらぬ私の道中奉行でありましたが、皆様のご協力を頂いたお蔭で、何とか責任の一端を果たせたかと思います。全日程を晴天に恵まれ、一人の故障者もなく無事帰山出来ました喜びは言葉では申せません。厚く厚く御礼申し上げます。この苦しかった奥駈もやれば出来るという強い信念を、神への感謝として、なお一層の精進を続けて参りたいと思います。今回参加された方々並びに御支援下さいました皆様の益々のご活躍と、ご多幸をお祈り申し上げます。 合 掌
大峯奥駈に寄せて 松広健二
「六根清浄」「六根清浄」玉置山大権現をめざし、山口廣開先生の調子に合わせて、大峯奥駈一行二十三名声高々と、疲労困ぱいだが満願かけて法螺鳴り響かせ、螺緒(かいのう ロープのようなもの)を延ばしいつでも使えるように手に握り、心一つにして玉置山中腹を巻くように進む。あと一息、四日間の汗にまみれ行衣も泥々である。
前方に教祖先生がにこやかな顔で一行をお出迎え、柔和なお顔を拝してどうやら踏破出来そうだ。目頭が熱くなる。(この方は、最も感激した最終日のことから書かれております)
さすが名高い玉置山である。境内に近づくにつれて、参道脇には千幾余年を超えるであろう杉の大木が、迫り来る夕闇とともに、辺りをうっそうとして神々しいものにしている。本殿に一同整列、山口廣開先生を中心に読経、道中無事のお礼を神仏に申し上げ、迎えの車中の人となる。
天の恵み、十津川の川原の隅に湧き出る温泉浴場横が四日目のキャンプ場である。教祖先生、教祖先生の奥さん、管長先生、七尾山総出のお出迎えに感激しました。この様に感激した事があったであろうか。感謝のうちにビール、酒等を前に車座に座り、「もう水の心配せんでよいのやなあ」と、水の調達に苦労された※先生達の顔もなごやかである。行衣を脱ぎ温泉で汗を流し乍らこの奥駈けを回想する。
※水がなかなか探せず、ヌタ場の水を18リットル程度運んだことがあったそう
です。ヌタ場とは、イノシシ、シカなどの野生動物が、体に付いているダニなど
の寄生虫や汚れを落とすために、水浴びをする場所のこと。結局その水は使わな
くて済んだそうですが……。
機会を伺っておりました奥駈け、廣開先生から参加の意思を打診され、魅力ある言葉に引かれる様にして参加させて頂きました。
七尾山を出発した一行の車は、前鬼口から登り、途中、不動の滝で祈り、林道終点で身支度。教祖先生の笑顔の中に厳しい見送り、いよいよ出発である。吊り橋を渡り〝六根清浄〟の掛け声とともに法螺響き渡り、お天気に恵まれ足許軽やかに前鬼小仲坊に到着。祈りの後、誰が握ってくれたかと感謝しつつおにぎりを口へ。最後の水場なので水を満タンにし、山ヒルを心配しながら両童子岩へ。大自然が、神が生んだ彫像であろうか、祈りの後急斜面の道を大峰山系の尾根へ登り詰めた処が太古の辻、一日目のキャンプ地である。
テントを張る先生、薪を作る先生。夕食の支度をする先生、夕闇は迫り来る。錫杖を建立しお祈りをする。やっと夕食だ。テントの中央で焚き火をするが、とに角、煙が目にしみる。地面に顔をつけるようにするがそれでも目にしみる。足許は熱いが背中は異常に寒い。背中を温めようとすれば目がしみる。これも行の一つかと辛抱して時計を見ると午前四時でした。
朝用意万端出発、屋根づたいに登り下り蛇行しながら熊野へ熊野へと。途中見事な石楠花である。険しい道、素晴らしい眺望、峰又峰、天狗岳から奥守岳、嫁越峠附近から動物特有の生臭さが漂う。先の道を調べていた樋川副奉行先生が、大きな熊の足跡を見つけたと云って帰ってくる。まもなく数百米先で熊の大きなうなり声を二回聞く。附近一帯は人の背丈もあろう熊笹が生い茂り、二度と通過したくない様な処がそこかしこと有った。
奥守岳で小錫杖奉納、般若岳から笹の宿跡、太古の辻より担いで来た大錫杖。その銘も乾光門(けんこうもん)、樋川先生の筆によるものか、担ぐ苦しみが報われる時である。奉納した横で記念写真を写してもらった時はさわやかだった。涅槃岳、証誠無漏岳と進み須迦利岳手前の行場を過ぎたあたりで、教祖先生のお出迎えを頂いた時は、日が沈み夕闇の中、●持経の宿へ。教祖先生の奥さんや営繕奉行先生の、心のこもった団子汁、美味しかった。その夜は教祖先生の指揮で焚火を中心にテントを敷き●、車座にゴロ寝である。仰ぎ見る夜空の星の綺麗なこと……。
明けて三日、平治の宿から轉法輪岳、景色の素晴らしい処である。錫杖奉納一同記念写真を撮る。伹利迦羅岳、怒田宿跡、行仙岳から佐田辻、明るいうちにキャンプ地に着けないと判断した廣開先生の指示で、テント係の各先生が先発する。三日目のキャンプ地葛川辻に到着する迄に、日はトップリと暮れ、滑り落ちる様な坂道は上嶋道中奉行先生の気の使う所である。勇気付けるため廣開先生大きな声で「六根清浄」一同も大合唱である。やっとたどり着いた。薪を作る、焚き火の為の穴を掘る、営繕奉行の一番多忙な時である。出来上がった味噌汁をひっくり返してなるものかと丸岡先生、一生懸命である。水汲み先生の帰りを待って夕食。まもなく、ぐったりと寝込む。テントの外で焚き火を囲んでの廣開先生はじめ若手の先生方は、眠れなかっただろうと思う。
開けて四日目、今日の夕方には下湯に入れる由、勇気を出して出発。槍ヶ岳から地蔵岳、地蔵尊前に錫杖奉納、廣開先生、上嶋先生一番気を使った難所であろう。千幾百年にわたる行者方が受難の地、道しるべと人は云う。
教祖先生御指導のもとに廣開先生始め各先生方の下見調査や準備、女性の方々の裏方さん、色々と御研究の樋川先生、七尾山総出の後押しあってこそ踏破出来たのである。重い荷物を担いでくれた若手の先生方にあらためて感謝いたします。今回の奥駈は、私は私なりに教わり、心に大きな財産を残してもらえた様に思う。 合 掌
峰中行を永久の思い出に 下宮幸司
奥駈けの山々は、日本中で一番の聖地で、多くの神々が鎮座されているところではないかと存じます。
この深山に我身を投じ、身心を錬磨する峰中の行に参加できる喜びと、不安と、期待で胸を震わせながら、前鬼の里より太古の辻までは一気に登る。皆この急な登りは堪えたようである。途中、奉行より参加者全員に対し、励ましの言葉や「皆の足を引っ張るような言動、行動は慎むように」との注意が飛ぶ。ここでは予定より倍くらいの時間がかかったようである。
二日目、三日目と急な登り、難所がいくつかあったが、皆助け合って何とか切り抜けました。また夜の寒い時は焼き石を作ったり、杉葉を燃えない程度に火にあぶり、それを下に敷いたりして暖を取った。
太古の辻の露営では、燃えやすい木が少なく火付きが悪かった。テントの中で火を焚き、その廻りで休むわけだが、煙で目も開けていられない、仕舞には、首から上をテントより外に出して寝る者も出て来る始末である。夜中に(トイレに行くため)外に出ると、生首が転がっているように見える。一つの首が言った。
「頭を熊に喰われると、どっちが前か後ろか分らんようになるから明日から歩くのに困るな」
「そうですね、目だけ残してもらえるよう熊に頼んだらどうですか」と隣の首が笑い乍ら言った。それでもテントが工夫されていて、去年と比べると眠れました。
帰ってきて思い返してみれば、楽しいことも辛かったことも良き思い出となり、自分自身の反省も思い出されてきます。次回の奥駈けには今回の教訓を生かし、反省点を克服し、また挑戦したいと思っております。
奥駈と人間性 黒岩 稔
私はこの度、初めて奥駈行に参加させて頂きました。この行の苦しさ、爽快さは登山をやった人でなくては分からないと思います。
今回、私は一番初めに自分に言い聞かせました。単なる登山ではなく「行の山登り」だと……
行の山に挑み、その結果、神直先生を始めとする先生方の力で無事 下山出来ました。
山中でのいろいろな出来事、その一つ一つ、その一言、その一つの行動に、その方の人間性が現れ、驚いたり、感心したり、絶句したりの連続でした。極限とは言わなくとも、それに近い状態の中で、その人、その個人の人間性を見た思いがしました。
一つの行動、一つの言葉、一つの指示を忠実に守ることが、奥駈行を遂行する上で最も大切なことだと痛感しました。
自然の中で 絆の中で 荒木美代
去年に引き続き、今年も奥駈け行がとり行われました。が、去年との大きな違いは何といっても、女性の参加だったと思います。私達女性は、個人的な体力、年齢の差こそあれ、最高の条件の中で完行することができました。男の人にとっては、イライラもし、はがゆい思いもされたことと思います。ですけれど、弱い立場の者を思いやり、かばい励まし助けあうこと、そして女性は、自分の身だけでも安全に無事に運ぶこと、それが今回与えられた一つの課題ではなかったろうかと思います。
整った条件、装備ということ、女性がさほどに、苦しさ、辛さ、危険を感じずにやり遂げたということ、それはそれだけ他の多くの人達の御苦労や努力があったればこそ、それらに支えられてあの大峰山系を歩くことができたのだということ、歩いたのは私達でしたが、何十人という人達の思いの上に歩かせてもらったということをしみじみと感じました。
宇宙、大自然から見れば、人間とは何てちっぽけなものなんでしょう…… だけど、一歩また一歩と歩く距離のすごさに改めて人間のすごさを知らされたりもしました。
これから何十年生きようと、おそらくは二度と踏めぬであろう地に立っての祈り、地蔵ヶ岳の切り立った崖の上で、建立したばかりの大 錫杖とともに、はるか眼下に連なる山々を見下ろしながら祈った般若心経は「この一願」の思いでした。
六根清浄の声にあわせ、皆と一本の綱を握りしめ登った坂道で、神直先生の御尊顔を拝した時のあの嬉しさ、感極まって思わず熱いものが……
この奥駈行は、人間としての最上の苦しみと最上の喜びを味あわせてくれた時間だったといえます。大地を踏みしめ、心のシャッターを押し続けました。そして、有形無形にかかわらず、しっかりと私達は足跡を残して来ました。それらを日常生活の中で、これからどのように生かしていくか大きな課題であると思います。
神様、一つの大きな財産をありがとうございます。
今回女性ながら奥駈に挑戦してみました
丸岡文子
少し不安はあったけれど、行くと決めた以上やり遂げたいという気持ちで一杯でした。自分の心の中でなるべく人に迷惑のかからないようにと念じていました。
9月24日朝、廣開先生を初めとし、拝殿所で無事に奥駈を成し遂げられますようにと神様に祈りました。3台の車に分乗して、前鬼口迄送っていただきました。各自が荷物を背にして〝いってきます〟と元気な声を出して吊り橋を渡りました。神直先生を初めとし繁久さん、博美さんが何時まででも送って下さいました。初日はこれからガンバルゾとの意気込みで、あまり疲れを感じませんでした。
二日目、歩いてばかりいるせいか水が欲しくてたまりませんでした。でも、男の人達は私達より、もっと重い荷物を持って頑張っているのだから我慢して歩かなければいけないと思いました。しばらくして小休息になり、念願の水が配給され、とても嬉しかった。順序よく水が回ってきて、一口、口に運んだ瞬間、こんなにも水が美味しいと思ったことはありませんでした。改めて水の大切さを、有難さを知ることができました。「休息、あと5分ですよ」の声がかかり荷物を背負ってまた進みます。
動物の休んでいた所や、水遊びをした場所などにでくわした。そうそう、熊さんのウンチにも出合ったっけ……。
急坂で、私だけかもしれませんが、まず最初、高い方を見てしまい、この山に登ることが出来るのだろうかと不安でしたが、そのとき頭に浮かんだことは、神直先生が食事をしているとき教えて下さったことです。高い山を見たら、あきらめずにあの頂上迄般若心経二百回唱えて登ろうと心に決め、二百回以内で終わったら、続きを次の山で唱えるようにすると、高い山々も次々に登ることが出来ますと仰ったことです。
私も息の続く限り心経を唱えて登りましたら、いつの間にか 頂上に登っていました。頂上から今度は急な下り坂です。でも心経を唱えると降りることが苦痛でなくなりました。自分の足で登っているけれど、自分ではなく多くの神々様のお陰をもって登らせて頂いているという感じで、思わず「ありがとうございます」を口にしていました。
寺経宿跡へ行く途中、私達より別の人の声が「オーイ、オーイ」と聞こえてきた。繁久さん、その後に神直先生のお姿が見え、とっても嬉しかった。その後より奥様が来られました。奥様は、それまで男の人が背負っていた大きな荷物を背負って下さりました。次々と一同が降りてきて夕食作りにとりかかりました。夜中、皆疲れたらしく、よく眠っていましたが、先生は夜中じゅう起きていて下さったみたいです。
三日目、4人1組で螺緒(かいのう)で連なり、登坂は続く。下の方から声が聞こえ、廣開先生が「法螺を吹いて下さい」と言われた。すると下の方から、車のクラクションが法螺の響きに答えてくれた。皆の「六根清浄」の声にも力が入り、一同の心はふるい立った。
「ご苦労様」神直先生、斉藤先生(光玉先生)のお出迎えをいただき、その言葉を聞いたとたん六根清浄の言葉が声にならず、唯一言「どうも有難うございました」と感謝の気持ちで一杯でした。
自分に、よくやったねと言い、それとともに満行を得たのは、神直 先生、廣開先生、樋川先生を始めとし各奉行先生のお陰と深く感謝しております。
来年も行くことが出来たら又是非参加させて頂きたく思います。本当に有難うございました。
大峯奥駈 坂野秀則
ふとしたことから別格にご縁があり、今回参加させて頂きましたこと、本当に嬉しく思います。太古の辻、持経宿跡、笠捨山、玉置山と24日より28日の4日間、背に荷を負い、ひたすらに歩きに歩いて色々と貴重な体験をさせて頂きました。その中での思い出は、ひたすらに歩く、眠い、煙い、寒い、隊から離れた時の一人歩きの心細さ、水を飲みたい等々大変でした。
神直先生は持経宿で私達と合流した後、そのまま野営にまでお付き合いして下さいました。私達を焚火の近くで休ませ、御自身は遠い所に毛布一枚で横になられ、眠らないで私達を守って下さいました。その優しさに打たれ感無量でした。
最後の山、玉置山のゆるい坂道を歩くのも、累積した疲れが出てきつかったです。山の中腹までさしかかると、出迎えの人の呼び声が聞こえ、無我夢中で一人だけ声を出してしまった。「オーイ」と……、なつかしさと嬉しさでつい声が出てしまった。
合流した時、缶コーヒーを頂いた。その美味しさと安堵感は今でも忘れられない。神直先生が「坂野さん、お母ちゃんが下で待っているよ」との御言葉に目頭が熱くなった。やはり夫婦なのだな。
道中での廣開先生はじめ諸先生方の御指導、やさしさはいつまでも忘れられないでしょう。本当に貴重な体験を有難うございました。
心のアルバムに残るだろう 徳田秀樹
僕は当初、今回の奥駈けに参加することなど考えてもいなかった。しかし、戸閉式の10日前本山に帰った時、昨年一緒に参加した皆さんが、(奥駈の)準備に追われているのを見てフト胸が騒いだのだった。
奥駈け ― 昨年、何も分からぬままついて行って、何となく帰って来て、けど、すごく壮快な気分と言葉にならない何か大切なものを感じた前回、苦しいんだけれども決してそれだけではなくて、苦しみの向こうに何かきっと素晴らしいものがあるんだと、そんな想いで参加させて戴いた。
7月に本山を下りてからは、毎日鍵盤に向かい、楽譜とのにらめっこだったので体力には自信がなかったが、奥駈けはそれよりも精神力の闘いと昨年実感したので、トレーニング一つなしで臨んだ。
4日間だけだったのに、まるで一週間も過ぎた気がした。都会の真ん中に暮らしているため、空気が一味も二味も違った。そんな日々から離れると、今日が何日で何曜日かさえも忘れた。唯、水が欲しいのと(速く歩こう)だけだったな。それから焚き火は暖かい。すごく暖かい。どんなに辺りが寒くても火のそばにいれば安心、強い味方だ。得たものは数知れず、このまま心のアルバムに残るだろう。4日間は別の地球に住んでいた。「苦しみ半分、素敵な時間半分」、これが僕の奥駈けのコピー(広告のキャッチフレーズ)ってところかな。
それから先生をはじめ出迎えて下さった皆さん、本当にありがとうございました。とっても嬉しかったです。
感謝の気持ちでいっぱいです 加藤藤子
教祖先生に御縁を戴きまして2年半というまだ日の浅い私が、今回の奥駈行に参加させて戴きまして、沢山の学びを戴き有難うございました。
私は山登りと言っても、近くの山、本山の奥之院、又は別格のお山位で全くと言っていいぐらい自分の足には自信がありませんでした。そんな私が、一日二十キロもの山道を四日間も歩き通せたということは、今でも信じられない思いでございます。
参加の皆様の中で一番未経験の私は、廣開先生の後を歩かせて戴きました。私が背負った荷物は、皆様にくらべるとわずかなものでしたが、それでも私には大変なことでした。でも私の前を歩かれる廣開先生は、ものすごい量の荷物で、ご自分に対して限界ギリギリの荷物を背負われて登られる後ろ姿を見せて戴いた時、私は「つらい」という言葉が申し訳なくて出ませんでした。また夜の山は、想像をしていたよりも寒さが厳しく、冬物のヤッケの上に、カッパを着ていてもシンシンと冷えてまいります。その時に、途中、手があいていて持てる方達がそれぞれに拾って持って来た平たい石を、焚き火の中に入れてあつく焼き、それをタオルに包んで暖まるようにと手渡して戴き、そのあつい石で暖を取りながら、お陰様で夜を過ごすことが出来ました。家に居る時は、寒ければストーブ、電気毛布等が当たり前の文化生活 に慣れきっていた私には、とても貴重な体験でした。
教祖先生が、奥様と御子息様と御一緒に途中の山まで私達を迎えに来て下さった時には胸いっぱいになりました。食事の時には、御自分はお食べにならずに、私達に「食べよ」「食べよ」と勧めて下さいました。尊い御方に御縁を戴けたことに幸せを感じ、また有り難く思いました。
教祖先生は、無事に下山いたしました私達を、涙して喜んで下さったことを、後でお迎えの先生方よりお聞きいたしました。教祖先生に一切を、お守り、お引き受け戴いての今回の奥駈行でありましたことを心より感謝申し上げます。
大峰奥駈修行について
道中奉行 多本矩利
本年度の奥駈修行には女性も参加しましたが、無事に終えることが出来ました。
女性には、重い荷物をかついでの道中にもかかわらず、元気よくがんばってくれました。ただ道中の行場でも景色を楽しむゆとりもなく、朝早くから夜遅くまで歩いていたことしか思い出せず、前年度の奥駈修行にくらべると、ただ疲れたと言うような思い出だけでした。
奥駈行に見た、水の尊さ!
道中奉行 山口基樹
今年度は、前鬼山から玉置山まで、3泊4日の行程で奥駈が行われました。出発の日、まるで遠足にでも行くかの様な気分で荷物を背負い本山を後にしましたが、5日後、すなわち家に帰り着いてその翌日のこと、道中のハンパない運動量のせいか腰痛が起きてしまいました。
奥駈けの場合、喉の渇きもハンパではありません。山岳を移動中、時おり、六根清浄を唱和しながらみんなの歩調を合わせるのですが、ぼちぼち疲れが出て来た頃、喉の渇きもピークとなり、声がだんだん出にくくなってしまいます。『うっ❢くっついちゃぅ…』思わず、道端のハッパに残った朝露を口に含みました。一滴、そしてまた一滴と……、皆の歩調に合わせ乍らも道端の葉をつまんでしずくを口に運びました。すると、そのわずかな水が、わたしの身体の活力を呼び覚ましてくれ、再び声が少し出るようになったのです。極限状態のときには、少量の水でもこれほどの効き目があるのかと驚かされました。日常生活に於いては何気なく使っている水ですが、あらためてその有り難さ、その尊さを体感いたました。
「奥駈け道」、心身練磨の道として今後も是非参加させて頂きたいと思っております。お世話くださった各奉行様、そして七尾山道場で私達の無事を祈って下さった先生方に心から感謝申し上げます。
有難うございました。 合 掌
全てに感謝、南奥駈満行 善田ケイコ
快晴、ついに奥駈行が始まる。とても緊張している。見送りの人々が手を振る中、総勢23名が元気に出発!思ったより険しい山道が続く。ヤマヒルを心配しながら登っていった。
2日目の夜には、持経宿跡にて、教祖先生の思わぬ出迎えを受け、疲れた心身にも力が湧き起こる想いがした。
朝は暗いうちから目を開け、夜は暗くなるまで歩きつづけることもあった。いったい幾つの坂を歩くのだろう。登った分だけ又下って行かなければならない。毎日その繰り返しである。途中には熊の爪痕、獣の休み場、ダニの生息地。そして普通では考えられない食生活。少量の水を皆で分け合い、かばい合いながら、ただただ歩きつづける。
夜は寒く火をたいても眠ることができない。昔の行者方は、こんな所を1人で進んで行ったのか、すごい。荷物がだんだんと肩に食い込んでくる。しかし不思議なことに、身体が重いのとは逆に心は軽く感じていた。
23名、なんとか全員無事に最終目的地である玉置山に着くことができた。ましてや女の身での奥駈満行。この感激はとても口では言い現せない。すべてに心から感謝の気持ちでいっぱいです。
奥駈に参加して 堀 勇治
昨年大峰山山頂より前鬼の里に走破したのと、今年前鬼より歩いているのが、頭の中で一線につながった。
幾多の山岳を乗り越えて来た同志の胸には、様々な思いが去来していることであろう。尾根を駆け、そそり立つ岩場をよじ登り、鎖に生命を託し岩盤を降りる。行列後部に付いて観ると、前を行く同志は、大自然の中において、長いアリの行列に自身の身体を引っ張られているちっぽけな生命体でしかなかった。強行軍の連続で、たまった疲労が全身に重くのしかかる。肉体の苦痛に歯を食いしばり、喉の渇きに目をむいて耐えた。「神々の座」の走破はのたうち回る苦しさであった。同志の肉体と精神は極限を彷徨(ほうこう) しているのだった。すでに種々の欲望に満ちた人間世界を超脱され、食う、生きるだけの人間にされている。極度の疲労が我らを支配した。体力に関わらず前進することが嫌でも要求される。話をする者がいない。視線を地面に落として黙々の行軍。自分と対話しているのに違いない。おそらく、激論を戦わせているのだろう。疲労の限界寸前を奉行先生が察知、早速、道中奉行先生より休憩の合図。法螺が鳴り、ヘタヘタと座り込む。頭巾(ときん) 一杯の水の配給、顔をあげ景色を見る。幾山河を乗り越えた同志達の胸に、生きる歓喜がこみ上げた。
走破した山岳は大小四十座に及んだ。肉体の限界を超越する苦行であった。張り裂ける心臓の痛みをこらえ抜いた。硬直した足を引きずった。極限を突破した者にだけ許される生命の歓喜であった。
「ようここまで来たもんや」
「歩けば歩けるものだな」
歩き通せた自分が信じられぬ同志もあった。それは当惑するほどの喜びであった。
あれが玉置山、最終目的地だと山頂を拝してからどれくらい行軍しただろうか。前鬼の里より2日目、待経宿跡で、神直先生の思わぬ力づけをいただいた。走破4日目の午後4時頃、計画では午後2時頃玉置山に到着のはず。かなり遅れている。
周辺にもやがかかり、山の天気は変わり易く、向こうの山頂は雨の様子。うす暗くなり、体も疲れ、不安・焦りが出る。このような状態を、神経を研ぎ澄まし、何日も行軍する同志を把握し続けてきた奉行廣開先生が一早く察知し、休憩の合図。体を休め元気を持ち直す。
これより先は螺緒を伸ばし列をつなぐの指示。気を取り直して出発。峰歩きから山腰(さんよう)を廻る道に変わった。
「六根清浄、六根清浄」
自動車のクラクションが聞こえた。迎えの車のようだ。法螺が答える。前方より、
「迎えが来ている。もうすぐだ」の声。まもなく
「オーイ」
先生の声だ。感激の一瞬だ。もう疲れも渇きもなくなった。足も軽々だ。合流の後、行列の後ろに先生始め迎えの方々が続く。一同玉置山山頂へ。
「皆無事でよかった。無事でよかった。よかった、よかった」の先生の声。わたしは行列最後を歩いているので、先生の声が聞こえる。おかしい、いつもの先生と違う。道がつづらに折れる。振り返ってみた。すると、光玉先生がそっと耳打ちしてくれた。
「神直先生はひどく心配されたのだぞ」と、先生に聞こえないようにぼそぼそっと言う光玉先生の目が潤んでいる。〝泣いているのか〟
「おまえらの元気な姿を見て、先生は涙されたのだ」
と言われて目頭が熱くなる。渇きも、飢えも、疲労も、肉体の限界を突き破ったことも、小さなものとなる。出発来、先生はずっと我々を守って下さったのだ。先生がご自分の手のひらに乗せて、奥駈走破をさせて下さった。後に、「帰って来た一人一人だいてやりたかった」とも言われた。
神直先生の計り知れない慈悲、慈愛、どう表現し、どう書けるのか、…感無量……。
合 掌
ピエロ 樋川由次
一髪千釣を引く(いっぱつせんきん)※やも知れない南奥駈の秘岳に向けて、万感こもごもの行者たちは、引き絞った弓から放たれた矢のように、矢音高く、登拝に突き進んだ。私は今年還暦を迎え、同行者中の最高年齢。私の南奥駈行程は、前鬼吊橋へ踏み出す一歩からではなく、一枚の紙に奉行(廣開先生)の構想を書き留めることから始まりました。
※一髪千鈞を引く
極めて危険なことのたとえ。「鈞」は中国の昔の重さの単位で、「一鈞」は周の時代では約8㎏、唐の時代では約20㎏。髪の毛一本で千鈞の重さがあるものを吊り下げるということ。
前鬼で見送って下さり、持経宿跡でのご守護、横峯金剛で迎えて下さった教祖先生は、事前に御立案。先生御自らも登岳し、大峰全山の神々に御加護を御祈願下さっておられます。
参加者全員が、神々の御加護を確信し、純粋な清浄心で満行させて頂いた時、先生と神々とのお約束であった、その心を一同が持ち続けて南奥駈を完遂したことに、感涙の抱擁を下さったのです。
弓から放たれた矢は、矢羽根一枚にもキズすらなく初心を貫くことを得ました。本当に有難うございました。ご苦労様でございました。
そしていつまでも忘れてならないのは、スマートな奉行の心の絶唱です。奉行は、先生に南奥駈行の全容を報告するため、記憶の薄れるを恐れ、幾夜を徹して下記集録書※を作り上げました。このことを知らせてはいけないと奉行から申し渡されておりますが。お叱りを受けるのは重々覚悟の上です。 合 掌
※『南奥駈行 回峰集録書 神経垂迹記』(原稿用紙62枚)
少し後ろに、掲載されております。
このサイトには集録いたしませんでした。
秘境の中に曼陀羅を見た 樋川由次
『まことのこころ』第31号(昭和61年)
職業も性格も環境も異なる、同行の方々の心が一つになり、大いなる御神のご加護の尊さを自覚しながら、大峯南奥駈行は無事満行させていただくことが出来た。
新しく参加した約半数の同行者を含め、総員二十三名は秘境大峯南奥駈の第一歩を前鬼山に向けて進めた。一同の中には未知の世界へのワクワクするような探訪の心と、遭遇してはならない危険に際しての不安の心を抱きながらの参加者も、又案外気軽な気持ちで加わった方もいただろうが、山中の無数なカモシカの足跡や遊び場、いくつもの熊の足跡やフン、それに熊の鳴き声や生々しい立木への爪痕等を考え直すと、一度も遭わなかったのが不思議な位だと思い返すのである。
中には、私のような気まぐれで短気な熊もいただろうに、万が一熊に出遭っていたら、一体どんな状態が生まれただろうか、想像しただけでもゾッとするのは私だけではないだろう。
それにも増して足元の悪い行場や登り下りの厳しい岩場は、怪我をしても無理な話ではないのに一人の怪我もなかったのである。登拝に必要な全ての物を背負った一日の行程と、制限された食事と飲料水、睡眠のとれない連夜を考えただけで、そこには一般の常識は存在しない。山での一夜が過ぎると、一同の人相は変わり、責任者の目は又一段とギラギラ光ってくる。
比較的楽な道中では、冗談や笑い声も聞かれるが、いざ命がけの危険場所ではそれどころではない。転落したら死体を見つけることも不可能な難所が何箇所もあるからである。背の高い笹藪が覆っている危険場所はガケ下まで視界が届かないので一見、気楽に考えやすいが、笹は反対に滑る手助けをする。心経を唱えながら、身体一つで登るのにも苦しいのに、大峰の強力(ごうりき)が背負うほどの荷とともに胸突き坂を登る。考えると何も言わない方が楽のように思うが、不思議なことに一度経験すると、次の坂では誰もが心経を唱えながら登板するのである。
それにしても、今度の奥駈行に降雨の試練をご神仏がお与え下さらなくて、本当に感謝の他はない。もし行中に一日でも雨だったら、どんな事態が生じていたか計り知れないからで、晴天続きの中での今回の奥駈道には愚痴一つ聞かれず笑顔も冗談もあったのだが、悪天候で仮に一人でも事故車が出た場合を考えると、背すじが寒くなる思いである。それは何を意味するかというと、全員が死の可能性を背負って 踏破しなければならないということである。
曼陀羅の大峰山中で体得した経験を生かし、来年からの奥駈道に少しでも役立つ方法を考えご神仏に感謝し、心に宿る行果を残して行きたいものである。
昨年は連日降雨の奥駈けで、本年は晴天続き、何かを考えなさいとのご指示のように思えます。
今年最終の第十行所、玉置神社に到着、午後六時二十五分、誠に恐れ多いことだが、教祖先生自らのお出迎えをいただき、一同の胸の底からは、あついものがこみ上げる。
〝六根清浄〟法螺の音の響きとともに山中に染み入って、勇壮で尊厳な南奥駈行はその幕を閉じようとしている。
夕闇の訪れた玉置神社で涙して祈る同行の人々をやさしく見つめる 教祖先生の御心の内を‥‥‥。ご守護の尊さを忘れまい。
感 無 量 神直 合掌
六根清浄 六根清浄 元気な声をこだまさせながら行者子達は帰って来た
大峰山脈の南北奥駈行と言えば全国山岳修行者の厳行中の厳行であり 三密体得の修練場である
奥駈行の意味も山岳のきびしさもわからなかった行者子達は兄行者のたらす一本の命綱を頼りに全員無事に帰って来た
苦難を克服すれば感無量
案ずる気持ち 待つわびしさ 苛立つ心をおさえれば感無量
汗あせ汗の中の顔が笑った
目がうるんだ よくやった 声をかけてやりたいが声にならない
小さな感情もかみころすのに精いっぱいだ
夕暮れ早き 秋のいっとき 互いに体得した三密荘厳感無量の心
今後は日常生活の中に行者子達とともにいかしたい
※行者子達(ぎょうじゃこら)
先生がこの言葉を使う時、自分を信じて集まって来た者達、即ち弟子、道場生、信者等の方々がここに含まれておりました。
※三密(さんみつ)
密教では、世の中のすべてを根源的な神仏(名前は色々あり。創造の神仏(かみ)、太元霊(おやたま)、大日如来など)の働きとして考えます。自分自身を含めた世の中全てを、根源的な神仏の御働きとして考えるため、自分自身もその神仏であると考えます。
しかしながら、私たちの多くは、「自分自身が創造の神仏と一体である」とは気付きません。「自分自身が神仏と一体である」と気付くための方法こそがまさに三密の修行です。
三密とは、身密(身体・行動)、口密(言葉・発言)、意密(こころ・考え)のことです。これら「行動・言葉・こころ」の三密を調えることが、三密の行です。この行を通じて、自分自身が神仏と一体であることに気付き、生きたまま神仏になること、つまり即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を目指します。
神仏から頂戴した修験道の格言
ここまで読んでこられた貴方は、このサイトを真剣に読まれている方だと推量されます。そこで、修験道の格言を紹介させて頂きます。これからの人生を渡っていくのにきっと役に立つと思われます。