神仏から頂戴した修験道の格言

三格言 昔日の道場生             
215(平成30/2018)

針心太道」「斜」「圓心覚道」いう神仏よりいただいた格言が、奥宮殿(おくみやでん)(はり)刻まれています。菊の御紋の幕がかかっているので、気を付けてみないとわかりません。なお、以下に書かれた考え方が全てではありません。一つの叩き台として頂ければ幸いです。

 

針心太道(しんしんたいどう)

 ある日、教祖先生はお母さまが縁側で針仕事をする様子を、なんとはなしに見ておられたそうです。お母さまは、ズボンにあいた大きな穴(つくろ)っておられました。針は同じような場所を行ったり来たりしております。進んでいるのが遠目では分らないほどのスピードで。その時「ああ、そうか」とこの格言の意味が分かったとのことです 

()「ちっぽけな針でも、くさらずに黙々と活動を続ければ、やがては大きなほころびを繕うことできる。それまで着ることの出来なかった衣服に、新しい生命吹き込むことが出来る。人間の活動も同じようなものだ。たんたんと、ただたんたん根気強く活動すれば、やがては社会にあいた大きな穴をうことができる」と、先生は思われたそうで

()針仕事には根気とともに、細心の注意が必要です。そうであるなら、「針の心になりなさい」とは、「ささいなことにも心を込めなさい、心を砕きなさい」というお諭しとも考えられます。 

 人は高邁(こうまい)な思想を並べたがりますが、口先だけでは他の方の信頼を得られません。きれいな言葉を並べるのが、一番簡単なことだからです。誰にでも出来るなんでもないことを、利害を超えたところで、「たんたんと」「心を込めて」実践してみたらどうでしょう。他人(ひと)は見ていないようで、必ずその姿を見ております。信頼はそのようなところから生まれます。信頼が得られれば、自分一人の力では到底実現できなかった事も実現出来るようになります。

 この世に於いて、(ほそ)い物の代表のような「針」が、「太道につながっていると云うのですから、このように考えることも許されるのではないでしょうか 合

 

 

斜心中道(しゃしんちゅうどう)       

 本山の奥宮殿の梁に、神仏から頂いた三つの格言が刻まれております。そのうちの一つが「斜心中道」です。わたしが、この格言に出会ったのは、今から二十数年前のことです。以来、解読できないまま歳月だけ流れてしまいましたが、最近ようやく、この格言について一つの考えがまとまりました。そこで、以下にわたしの思うところを書かせていただきます。

 まず、斜心中道の「中道」とはどのような意味でしょうか。神仏からの格言である以上、ここで言う「中」とは、「中ぐらいの大きさ」と言うような時に使われる「中」ではなく、中心の「中」だと思われます。したがって、「中道」とは、人として有意義な一生を送るために必要な、肝心かなめの道と考えてよいでしょう。

 では、斜心中道の「斜」とは一体何のことでしょうか

 上棟式が終わったばかりの日本家屋を思い浮かべて下さい。柱にはそれを支える為の「斜め」の木、すなわち「筋かい」が添えられていますこの筋かいについて少し考えてみましょう。筋かいに用いられる木は、節も多く、柱の三分の一ぐらいの厚さしか与えられておりません。それもそのはずです。切り倒してきた丸太から、まず節の少ない中央部分を柱用材とし、その残り筋かいに用いからです

 また、出来上がった新築の家をほめて、「いい柱を使っていますね」とは言いますが、「いい筋かいを入れてますね」とは、決して言いません。当然のことです。筋かいは壁の中に隠れてしまい、見えないからです。しかし、この誰からも評価されない筋かいがなかったとしたらどうでしょう。「柱」が「柱」でいられるのも、「筋かい」が「柱」を支え一定の場所に固定してくれるからです。地震の多い我国では、筋かいのない家などは数年と持ちません。「筋かい」は、その働きにおいて、決して「柱」に引けをとるものではありません

 わたしは、「斜」とはこの「筋かい」のことではないかと考えております。このように考えることは、言葉の上でも無理がありません。というの、「筋かい」を辞書で引いてみると、「筋かい」は別名「ななめ」との記述が有るからです(三省堂国語辞典・岩波国語辞典)※

※後日気が付いたことですが、広辞苑では「斜」で引くと、直接「すじかい」と出てまいります。もっと早く広辞苑にあたっておけば、「何年も悩まなくて済んだのに」、と悔やまれました。


四 
仮にわたしの考え方が正しいとした場合、この格言は何を意味していることになるのでしょう

 木はどこに使われようと文句を言いませんから、「筋かい」として使ってももらえますが、もし、これが人間だったらどうでしょう

「自分は、筋かいのような、人の目にも触れない、誰からも評価してもらえない所に使われるのは御免だ。やはり、柱として生きたい。」と考えたらどうでしょうか。このような方は、このこだわりを捨てない限り、せいぜい犬小屋の柱ぐらいにしかなれません。「自分を売り出したいという心」が、結局はその方をあまり役に立たない人間としてしまいます

 人が心の中で仕事の上下をつけるだけで、本来、仕事には重要なものとそうでないものとの別はないものと思われます。むしろ、誰にでも出来る、評価されない仕事こそ、人がやりたがらないという点で、それをすることに価値があるのかも知れません。しかし、悲しいかな、我々人間はあまり評価されない仕事にはなかなか気が向きません。だからこそ、神仏はあえて斜心中道という格言を下さり、お(さと)し下さったものと思われます

 神仏の目は、大祭で護摩を()かれる導師先生方にはもちろんのこと、その方々の食事の準備をしてくださる方々にも、また、お母さんがそれをできるよう、赤ちゃんの世話をしている小学生にも、上下の別なく一様に、向けられているのではないでしょうか。一陣の風となり「いい子だ。いい子だ」と頭をなでておられるような気がいたします。勿論、地方の講社の使い走りをさせていただく方も、尊い「筋かい」です。

 この文章を書いていて思い出す教祖先生の御言葉があります。それは、「修行とは、誰にでも、また、何にでも使ってもらえる自分を創ることである」というものです。二十歳前後の当時のわたしには、頭では分かっていてもなかなか実行出来ませんでした。 合  




圓心覚道(えんしんかくどう)       

「覚道」とは、「悟りに到る道」と考えて良いでしょう。では、「圓心とは、どのような心でしょうか

 「圓」を辞書で引くと「まる」とあります。したがって、「圓心」には、文字通りの「まるい心」という意味あると思われますとげとげした心では周りの方が疲れてしまいます。昨今話題のパワハラが良い例です。したがって、圓心覚道には、「自分が行けばみんなが喜んでくれる、そんな自分をつくりなさい」※という意味があると思われます。この意味での圓心については、いろんなところに書かれていますので、ここまでといたします

 ※「自分が行けばみんなが喜んでくれる、そんな自分をつくりなさい」とは、私が道場生のときに先生からよく聞かされたお言葉です。 

 次に、上記以外の意味について考えてみたいと思います。

 針心太道の「針」も、斜心中道の「斜(すじかい)」も、身近にある具体的な「物」を示しております。したがって、圓心覚道の「圓」も、身近にある具体的な「物」を示しているように思われます。そこで、身近にある圓形の物を探してみますと、私の場合、すぐに思い浮かんだのは「車輪」でした。

 車輪が車輪として用を成すためには、車軸から車輪の円周部分(地面に接する部分)までの距離が等しくなければなりません。そうでなければ、リヤカーにしても自動車にしても、ガタゴトしてしまうので、車自体も傷みやすいですし、載せている荷物にもよくないからです。そうだといたしますと、この場合の「圓」とは「楕円」ではなく「真円」を示していることになりましょう。

 「真円」であることを前提にいたしますと、圓心覚道とは「自分の周りの者と、(かたよ)ることなく、公平に接しなさい。それが悟りへの道に通じている」という意味になるでしょう。 

 仮に、このように言えるとしても、実践はなかなか難しいことです。なぜならば、我々は必ず心の中で他人を評価し、善悪、美醜、好き嫌い、自分にとって都合が良い人物なのか等々の判断を下し、それに振り回されてしまいがちだからです。本当に、周りの方々と等しく差別なく公平に接するためには、人をはかる物差しそのものを捨て去らなければならないからです。

 この物差しを捨てるのは実に難しいことです。なぜならば、そもそも我々は、自身の心がそんなに歪んでいる(真円でない)とは思っていないからです。というのも、我々は子供の頃から、人をはかる物差しを知らず知らずのうちに、自身の心に深く()み込ませてしまっているからですそのため、「社会的地位の高い方は人間としてもすぐれている」などと考えてしまいがちです。結婚相手を探すにしても、身長がどうの、学歴がどうのと、人間そのものの価値とは関係がない物差しによって相手をはかりますそればかりか、我々の心には、人の美醜を判断するというような本能的、生来的と思われるような物差しさえ、存在しているからです。

 人をはかる物差しを出来る限り捨て去るべきですが、どうしても最後まで残ってしまう物差しもあります。それについては、評価してしまうのは仕方がないこととして、それに振り回されない自分をつくる努力を積み重ねる他ないようです。真円となるように自身の心を日々、磨いていく他ないようです。

 

 次元が違いますが、この格言に関して思い出す教祖先生のお言葉があります。それは、「ぼくに寄って来る人間を公平に扱うこと、一線に接すること。これが一番むずかしくて、一番しんどい。ぼくには、それぞれの心が分かるからな」というものです。

 

終わりに 

 私の解説は、単なる一つの考え方に過ぎません、決して私の考えを鵜呑みにしていただくことなきようお願いいたします。

 神仏からの御霊示や格言を解説することには、大変な躊躇(ちゅうちょ)を覚えます。山の中腹から見る景色と、頂上から見る景色とはずいぶんと異なります。神仏からの格言のとらえ方もそれと同一です。修行途上にある私には、それなりのことしか分かりません。とは申せ、第一歩は踏み出せているかもしれません。それを願いつつ、諸兄諸姉の参考までにここに記させていただきました。 合 掌