◇当山由緒
元徳2(1330)年、当時甲斐国主であった武田家第7代の信武公が、夢窓国師の高弟であった月舟禅師を招いて創建しました。従って、本来ならば月舟禅師が初祖となる訳ですが、禅師は自ら二世を称して、恩師の夢窓国師を開山としました。
開山後は夢窓国師を中心とする五山派の官寺となり、室町幕府の保護を受けていたものと思われますが、幕府の勢力が衰えるとともに五山派も著しく衰微し、以後武田信玄公が甲斐国主となるまでの約200年間の当山の歴史は明らかではありません。
五山派の凋落にとってかわって新しく発展したのが、妙心寺の関山慧玄(無相大師)らの流れを中心とする臨済禅でした。関山派(妙心寺派)は伝統の修行を重んじ、武家の帰依するところが多かったため、戦国大名の勃興とともに、五山派の寺院は次第に関山派に変わっていき、当山もその例外ではありませんでした。
武田信玄公は、祖先であり「武田家中興の祖」といわれた信武公が開いたこの寺の伝統を守るため大修理を施し、寺領を寄進した上、甲府の東光寺、円光院、長禅寺、能成寺とともに「府中五山」の一つに列しました。このため寺運はたちまち隆盛となりました。
信玄公の後を継いだ勝頼公からも引き続き保護を受けましたが、長篠の戦い以後武田家は衰運に向かい、ついに天正10(1582)年、武田家は滅亡してしまいました。そして勝頼公の首級は京都六条河原にさらし首となったのです。これを知った当山三世の快岳禅師は、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼公の首級(歯髪ともいわれている)をもらい受け、当山に持ち帰り手厚く葬ったのです。
本能寺の変の後、甲斐を支配した徳川家康公は、甲斐の内情に精通する快岳禅師を召し、まだ服従しなかった武川十二騎を説得するように命じました。そしてこれを果たした禅師の功績により、寺領を賜るとともに、勝頼公を中興開基として末永く菩提を弔うようご沙汰があり、勝頼公菩提寺としての地位を保障されました。
江戸時代の寛永10(1633)年に妙心寺が幕府に提出した「寛永の末寺帳」によれば、当山は甲斐国において末寺26ケ寺を有するとともに、甲斐国唯一の御朱印地であり54石の知行高があったことがわかります。
その後今日に至る時代の中で伽藍の規模は縮小しましたが、当山の歴史は脈々と続いています。
○夢窓国師
後醍醐天皇をはじめとする7代の天皇から国師号を授けられた高僧。鎌倉時代後期の建治元(1275)年、伊勢国に生まれる。幼少時に甲斐国に移住。青年時代に鎌倉の諸寺で禅を学び、印可を受け夢窓と号した。その後、正中2(1325)年、後醍醐天皇の勅請で南禅寺住職となる。その4年後、鎌倉幕府の招きで円覚寺住職となる。幕府滅亡後は再び後醍醐天皇に招かれ、南禅寺、臨川寺の住職となり、建武2(1335)年、国師号を贈られた。建武新政崩壊後は足利尊氏の信任を受け、後醍醐天皇の菩提を弔う天竜寺創建のための天竜寺船の派遣を献策し、建立後その開山となる。西芳寺(苔寺)など多くの庭園の設計でも知られる。
○武川十二騎
武川衆は武田家家臣団のうち、現在の北杜市武川町周辺を本拠とする集団であり、武田家末期には、米倉忠継、折井次昌ら十二名が頭目格となっていた。武田家滅亡後は徳川家に属し、甲府城城番も勤めた。武川衆の一員であった柳沢氏は、吉保の代に将軍綱吉に寵愛され、大名家となった。
◇法泉寺ばなし
この寺に「首級牛蒡」という話があります。これは勝頼公のご首級と法泉寺にまつわる伝え話です。
天正10(1582)年、勝頼公の首級は京都六条河原にさらし首となりました。これを伝え聞いた法泉寺三世の快岳禅師は、むごい処置を悲しみ、直ちに京にのぼり、密かにご首級を奪って鄭重にご供養申し上げようとしましたが、織田軍の警戒が厳しく目的を果たすことができません。
そこで、当時妙心寺におられた南化和尚に相談したところ、和尚の力添えでようやくご首級をもらい受けることができ、妙心寺で鄭重な葬儀を営むことができました。
しかし、快岳禅師は、勝頼公のご首級はその故郷である甲斐国に葬ることが至当であると考え、密かに甲斐に持ち帰って来ました。
ところが、当時法泉寺は織田勢の陣所になっていたので、ご首級を持ち込むことができず、やむを得ず上帯那の三上家を頼っていきました。しかし快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来に追われ、あやうくご首級が見つかりそうになったので、禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へご首級を隠して難をのがれました。その後、禅師は山奥の大馬籠という昼もなお暗い栗林の中へ仮の庵を建て、これを信向庵と名付け、ご首級をお守りしながら時節の到来を待っていました。
やがて本能寺の変の後、織田勢が引き払ったことを確かめた禅師は、急いでご首級を寺に移し、境内に鄭重に葬ったのです。これが現在「勝頼公首塚」と呼ばれている場所といわれています。
三上家ではこの伝えをもとに、毎年正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから新年の挨拶をするようになり、これを「首級牛蒡」と呼ぶようになりました。