当山は創建当初より甲斐国主であった武田家の保護を受け発展してきましたが、なかでも当山との関わりが深いのは信武公、信玄公、勝頼公の3人です。
○ 武田信武公
1303年頃に生まれたと考えられています。剛胆かつ思慮深く、武略だけでなく治政にも秀でていました。禅宗を篤く敬い、夢窓国師及びその高弟月舟禅師に深く帰依しました。元徳2(1330)年、父信宗が没すると、その菩提所を開基することを決意し、月舟禅師の指導の下に伽藍を造営しました。これが当山の始まりです。
足利尊氏の姪を娶り、室町幕府創立に大きな役割を果たしました。その功により、甲斐のほかに安芸国守護、九州探題などの要職を歴任します。
和歌の達人としても有名で、新千載和歌集や新拾遺和歌集に収められています。
(写真は当山・信武公墓所(甲府市文化財))
○ 武田信玄公
大永元(1521)年、武田信虎の嫡男として誕生。天文5(1536)年に元服、将軍足利義晴の一字をもらい受け晴信と名乗りました。天文10(1541)年、信虎を駿河に追放して甲斐国主となり、以後巧みな外交戦術と軍略により着々と領土を拡げ、戦国最強の武将と評されました。永禄元(1558)年頃出家し、信玄の法名を授かりました。元亀3(1572)年、上洛の軍を起こし、遠州三方が原にて織田・徳川連合軍を破りましたが、持病が悪化し病没しました。
信玄公は民政にも意を配り、「甲州法度之次第」の制定や洪水防止のための信玄堤の造営など、国力の高揚に努めました。現在でも山梨の誇る英雄として、その名は燦然と輝いています。
○ 武田勝頼公
天文15(1546)年、信玄公の4男として誕生。母は諏訪氏の娘。永禄5(1563)年元服し、諏訪四郎勝頼と名乗りました。武田家伝統の信の字をつけず、諏訪氏相伝の頼の字をつけるなど、いずれ勝頼公に諏訪氏を継がせる意図があったと思われます。その後嫡男義信が幽閉、病没するに至って、勝頼公が実質的な後継者と目された訳でありますが、一度諏訪氏として家臣の列に加わったこともあり、信玄公は勝頼公の嫡男の信勝を武田家の跡目とし、勝頼公は信勝が当主となるまでの陣代に定めたともいわれています。
信玄公没後、勝頼公は甲斐の実質的当主として、積極的に軍を起こし、高天神城や明智城などを陥し、信玄公の時代よりも領土の拡大に成功しました。しかし、天正3(1575)年、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家の武運は急速に傾きます。以後、勝頼公は永年の宿敵であった上杉氏と結ぶなど守勢の挽回に努めますが、天正10(1581)年、織田の大軍が来襲すると、家臣の離反などが相次ぎ、ついに天目山にて非運の最期を遂げることになります。その後、勝頼公が当山に葬られるまでの経緯は「当山由緒」の項で先述したとおりです。勝頼公の戒名は「法泉寺殿泰山安公大居士」。(写真は当山・勝頼公墓所(甲府市文化財))