廣開先生を偲んで
廣開先生の御跡を辿り
総本山管長
下宮晃真第246号(西暦2023年)
昭和二十五年頃、奥之院の開基とともに、蛇之倉七尾山が開かれ、道場が始まりました。時を同じくして、この頃、廣開先生がお生まれになりました。
その廣開先生ですが、ご幼少の頃より教祖先生が信者様に、お話しをされていますと、膝の上に座られて「じっ」としてお聞きになっていたそうです。
私が初めてお山にお世話になった頃は、お尋ねしたことは、全てお答えになり教えて下さいました。始めに教えて下さったことは、朝早く起きれなかった私に「一日に、一分ずつ早く起きなさい。そうすれば一ヶ月後には、三十分早く起きれます」と言われました。そして「一日に一つで良いから、自分にできることを覚えなさい」と言われました。
教祖先生は、開山より人の為に祈り、万物万精全ての幸せの為に生きて来られましたが、廣開先生は、その教祖先生に一歩でも近づこうと、日夜ご修業に励んでおられたそうです。
晩年になりますが、ある日病魔に犯されていることが分かりました。廣開先生は、その病に屈することなく鬼神悪邪を打ち払う如くその苦を修業の糧とされ「命ある限り命がけ」と、朝夕祈り通されました。
今、本山では朝六時より勤行が始まり、夜七時よりご供養のお祈りが執り行われています。その祈りの中に、教祖先生と弟子頭廣開先生の息吹が、今も息づいている様に思われます。この祈りがこれから先、千年も万年も永遠に続くことを願い、我々も祈り続けてまいりたいと思います。 合 掌
山口廣開先生を偲んで
矢崎幸男 第255号(西暦2025年)
〇絵日記
小学校低学年の夏休みに、蛇之倉七尾山に何日か泊めてもらいました。その時、中学生だった廣開さんに遊んでもらいました。その頃、廣開さんは本名が
あの日、本当に勝ちゃんが月を見たのかは確かめておりません。あの世で会えたなら、今度は聞いてみるつもりです。
〇道場生の頃のこと
わたしは、十九歳から二十二歳までの丸三年間、道場生として蛇之倉山において頂きました。その頃の廣開さんは、すでに御結婚され、最初のお子さんが誕生されたところでした。
廣開さんは、すでに教祖先生の後継者として、様々な活動をされておりました。平素は、我々道場生の先頭に立って、道場の清掃、朝晩の拝神、参道の修復・拡幅等に従事されておりました。大祭時には、山先達に専念していればよい私と異なり、廣開さんは様々な大役を掛け持たれていたので大変だったと思われます。
ちなみに、私がもう一人の道場生A君と一緒に、廣開さんから水行の手ほどきを受けたのも、蟷螂の岩屋前でした。※
※手ほどきを受けた後の行は、各自の自主性にすべて任されておりました。奥之院での香行、白華滝での滝行(当時、弥勒菩薩様の滝はありませんでした)、道場本殿での香行、蟷螂の岩屋前での水行、各自自分の意思でお行を実践いたしました。時間帯は日々の日課の前後、すなわち早朝や夜でした。競い合うようにおこないましたが、競技ではないので記録は残っておりません。しかし、廣開さんの真冬における連続百日間の水行は、今も、私の記憶に鮮明に残っております。
神直先生が各地におもむかれる時には、車の運転、その他の介添えにと飛び回っておられました。当時は車のナビなどなかったので、夕食後のテーブルの上に地図を広げ、目的地までの道順を検討されておられました。一日のうちに、何ヶ所も回るときには、長い間信者様をお待たせしないように、随分と心を砕いておられました。
神直先生の代理として、病気見舞いや冠婚葬祭等に出席されることも度々ございました。信者様お一人お一人に腰を低くして丁寧なあいさつをし、適切な受け答えをされる廣開さんをながめながら、とても自分には真似の出来ないことと感心いたしておりました。しかしながら、少年時代の勝ちゃんから推し量りますと、廣開さんも、「歌って踊れる行者を目指しております」と、新年宴会などで公言していたわたしをうらやましく思っていたかもしれません…。
〇廣開先生の歩まれた道
勝ちゃんは、中学卒業後、大阪の金型を製作する会社に就職しました。しかしながら、幼い頃から先生より聞いていた、世の行く末のことが頭から離れず、「こうしてはいられない」という思いに駆られる毎日だったそうです。そこで、就職後二年ほどが経過したある日、お父さんである初代管長先生に、「秀ちゃんあんにゃん※の弟子にしてもらいたい」と願い出たのだそうです。
※神直先生には、この世に於いて、
「損な役回りの方だったなぁ」というのが、蛇之倉七尾山における廣開先生を思い出すときの私の感慨です。 神直先生と廣開先生とは叔父と甥の関係だったので、他の道場生が、「先生は廣開先生をひいきしている」などと勘ぐらないよう、神直先生は廣開先生には特に厳しく接しておられました。廣開先生もそのことを十分理解していて、神直先生ばかりか裕子奥様の言うことにも、〝はい〟と〝わかりました〟以外の返答をされませんでした。何十年もの後、奥様が、「廣開さんは、わたしに一度も口答えをしたことがなかった」と述懐されておられました。
神直先生には、自分の思ったことや感じたことを、御自分の口から言うことが出来ない場合がございました。というのも、蛇之倉七尾山を知ってから間も無い方などが神直先生から叱られてしまったら、その方は、その後、御山から、ひいては信仰から足が遠のいてしまうからです。そうは申しましても、修験道場としての規律は守られなければなりません。そうした時、先生は廣開先生にその旨を伝え、廣開先生が当該の方に注意をされておられました。とうぜん、その方にとっては面白くありません。中には、廣開先生を遠ざけるようになり、はては廣開先生を憎むような方もおられました。
教祖先生が叱る場合でも、廣開先生を叱ることによって、その場にいる別の方に気付かせようとすることもございました。そのような時、廣開先生は正座して、不満げな顔ひとつせず黙って聞いておられました。発せられる言葉は「はい」だけでした。このような場面に居合わせた者(私の母など)は、「廣開先生はわるくないのに、どうして叱られているんだろう」、「いくら先生でも、そこまで言わなくてもいいのに」と思うことが多々あったそうです。勿論、神直先生もそのことは百も承知しており、「廣開には気の毒だけど、しゃあないわなぁ」と母に話されていたそうです。叱る方も辛い、叱られる方もしんどいことであったようです。
〇最後に
誰しも、すべっこい言葉だけを言っていたいはずです。そうすれば、
□以下は、廣開先生が残された、第2回奥駈け行に関する記録です。
神経垂迹記
回峰の記録 自9月24日 至9月28日
前鬼山~玉置山 昭和六十一年南奥駈行
参加者23名(内 女子5名)
修験節律根本道場大峰蛇之倉七尾山宗務 山口廣開
9月24日(晴れ)本山御神前に於いて南奥駈行出発の報告をする※。8時30分、本山留守組の人達に見送られて蛇之倉不動尊前を出発する。
※神仏に対しての報告です。
川合(かわい)の部落・御手洗(みたらい)・川迫(こうせ)と送りの車は峡谷の林道を走りぬける。この道筋は非常に景色が良い。
10時40分前鬼口に着く。バス停とトイレあり。缶ジュースが配られ、小休止の後、再び車中の人となり前鬼へと向かう。
前鬼山下流にある不動七重の滝に着く。昨年建立した錫杖を確認する。七重の瀑布睨み合う峻巌に皆しばし時を忘れ喚声鳴りを潜める。
いよいよ幽谷に踏み入れた。いやが上にも覚悟せざるを得ない。
11時25分、前鬼吊橋に着く。持ち歩く荷物を各自に割り当てる。
背負子(しょいこ)が足りない。教祖先生のご教示により、奉納大錫杖(長さ約○.○m?重さ○○㎏?のアルミ製のパイプに、錫杖の首の部分がついている)に荷物を縛り付け、女性の行者に担いでもらう。員数合わせて、一列に勢揃いする。
教祖先生、一閃先生、副貫主先生、繁久君、博美さんの御見送りを受け、法螺を合図に吊り橋を渡り始める。
12時33分、前鬼山小仲坊に到着す。閉ざされた門前を左に折れ、行者堂に回り込む。事前に建立しておいた錫杖を確認する。行者堂に奉攸(ほうゆう)納経をする。行所板掲示する。
行所板とは、出発前に準備したもので、ブリキの板に、大峯75靡(なびき)第□□番行所、□□跡、修験節律根本道場と書き記し、行く先々の行跡の確認できた所に掲げていく物である。
その他、奥駈道であることを記す標示板。辻看板。今回の行には、合せて約80枚の標示板を分割して所持する。これだけでもかなりの重量となる。
行者堂広場に於いて、本山より持参のおにぎりをほおばる。海苔を巻いた大きいおにぎりが2個ずつ入っていたが、1個しか食べられない人もいた。
ここは飲料水補給の最初の地点。今日と明日の命水。持参容器満杯に水をつめる。ここから荷物が重くなる。
午後1時55分、上嶋道中奉行の「出発!」の声が飛ぶ。
ブウ~ウウン ブウウ~ン (法螺貝の音)
緩やかな上り。道脇には老齢の杉桧。その陰に苔むした無数の石垣が見え隠れする。役之行者さんの直弟子の子孫として、かつては大峰山中道場の隠れなき一つとして、栄えた前鬼の里。貴賓、権勢、修行の人々がわらじを解いた絢爛な塔堂も今はただ想像の中に描くのみ。最初の干上がった谷を横切ると、道はゴロゴロの悪路になる。
錫杖に荷物を吊るし、前後で担いだ女性行者。顔をゆがめて、いかにも歩きにくそうである。先達の螺緒(かいのお)を外してもらい、各々の背におわす。※
午後2時50分、小休止の号令がかかる。頭巾(ときん)で水が配給される。汗を流し、渇き切った喉に染みわたる。
先達と手分けして杖を作り辛そうな人に渡す。各自荷物を点検し、午後2時59分出発する。道はさらに険しくなる。
先達二人ずつ組になり、難場に次々とロープを張って、みんなの進行を助ける。岩や木の根に手をかけながら、四つん這いになって登って行く。
午後4時3分二ツ岩に着く。倶梨迦羅(くりから)不動岩、矜羯羅(こんがら)童子岩、制多迦(せいたか)童子岩がある。
第30番行所。奉攸納経をする。二ツ岩より約100mぐらい行ったところに雫(しづく)水がある。横切る谷に糸のように水が染み出ている。心得た者でなければ、気付かずに通り過ぎる所である。
基樹先達※、笹の葉をあて頭巾にたらし皆に配給する。空になった容器にも水を入れる。多量の水は時間がかかりすぎて補給不可である。
※全体を読んでいただければお分かりいただけますが、基樹先達は廣開先生の弟であるため、常にしんどい仕事が割り当てられます。ここでも、皆と同じように休みたいはずですが、水の配給係をやっております。(矢崎)
午後5時34分、第33行所太古の辻に着く。今日の幕営予定地である。奉攸納経をする。行所板掲示する。
各奉行の指示で、急いで幕営に取りかかる。テント張る者、薪をひく者、火を焚き始めるも者、奉納小錫杖を立てる者。女性の手で便所のシート張られる。
秋の落日は早くあたりはすっかり暗くなる。皆慣れないことなので思う様にははかどらない。慌てて懐中電灯とカーバイトランプを探すが、沢山の荷物でなかなか見つからない。風がだんだん強くなる。
苦労してやっと燃えついた火であるが、風で火の粉が舞い上がる。危険を感じテントの中へ移動することにする。
薪方も、懐中電灯を頼りに、あちらこちらで切っているが、不慣れな手元にヒヤヒヤする。※
※廣開さんは、神直先生から、全員を無事に連れて帰るように厳しく申しつけられていたものと思われます。
「命がけで、全員を無事につれてかえってこいよ。一人でも欠けたら、おまえが腹を切ってもおっつかんぞ。」くらいのことは言われていたものと思われます。そうであるのに、連れて行くのは山にも刃物にも不慣れな都会の方々が多く、さぞ神経を使ったものと推測されます。
午後7時30分、テント張りが一応完了し、全員テントの中へ招集する。薪は長いまま、テントのそばに集めて置く。テント内で火を囲み、夕食をとる。本山より持参した夕食分のおにぎりと、(その場で作った)熱々の味噌汁が配られた。
テント中央に立てられた支え柱をはさんで両側に火を燃やす。煙抜きの天窓からは、逆に風が吹き込んでくる。テント内、煙が渦を巻く。疲れから、皆横になっては居るもののほとんどの人が、寒さと煙さに眠れない様子。焚き火の中へ小石を入れて、焼け石を作る。持参した古タオル古新聞に包み、女性行者及び年配行者達に差し入れる。夜が更けてゆく。人の声はなくなり、木のはじける音と風の音だけが繰り返されている。時々聞こえるいびきのシャクリ上げが、何故か心を和ませてくれる。
テントの中は人と焚き火でいっぱいであり、寝場所のない者どうし、気遣い合って外に出る。交代で火の番をしながら横になる。月は冴え、流れ星を数える。外に出た者は、寒さしのぎに薪をひく。煙にむせた人が、時々外に這い出してくる。その背をさすりながら又月を仰ぐ。近くに鹿の鳴く声を聞く。
9月25日、午前5時インスタントラーメンと食パン1枚ずつの朝食を戴く。一晩中煙に巻かれ、全員の目元が腫れぼったい。
夜中にトイレに起き、テントの横を通ろうとしたら、足元に黒い物が転がっている。懐中電燈で照らして見ると、人間の生首だった!もう少しで叫び声を上げるところだった。よく見ると、あまりに煙いのでテントの下から首を出して居たそうだ。控え目な藤村行者の話を聞いて、大笑いする。
忘れて居たが、ゆうべは何個も踏みかけた。辺りはまだ薄暗く、出発準備に意外と時を費やす。
午前6時30分、整列完了。出発する。背後には、朝の陽光を受けて 大日岳の峻壁(しゅんぺき)が甦(よみがえ)る。高橋行者、ビデオ撮影のため少し前を歩く。
午前6時45分、第32行所蘇莫岳頂上に着く。奉攸礼拝のみ。標示板を掲げ、先へと進む。
午前7時30分、石楠花岳に着く。頂上は一帯が岩石で、その名の通り石楠花の群生が素晴らしい。小休止の後、出発する。後方に大日岳・釈迦ヶ岳を眺めつつ。紅葉をしかけたドウダンツツジの中を。低い熊笹の中を進む。
午前8時19分、天狗岳頂きを踏む。行所ではないが1536mと、この辺りでは高い。頂上三角点は、大きな坊主頭を思わせるように草が生い繁る。何人かの人達、個人個人の回峰記念にと10本ずつ戴いた添護摩献木に名を記し、それを掲げている。「休憩の時にすればいいのに」と、先頭は列を整えるためイライラしながらそれを待つ。
午前8時40分、第27行所奥守岳に着く。奉攸・行所板を掲げる。小錫杖の建立場所である。文字は樋川副奉行、現地にて書く。
奥駈道はここより、左へと折れ曲がっていく。目印はあるが分かりにくく、右手へ伸びる他道の方がはっきりしている。幸い好天であるが、雨か霧の中であれば十中八九の人が間違えるであろう。
錫杖が建つ間、先達組に道明けの指示を出す(奥駈け道を分かりやすくするため)。枯木を切り倒して道形をつける。枯木に赤のペンキで矢印を記す。道標を掲げる。草を刈る。
草を刈るために、たたき鎌(大型の鎌だと思われる)を持って来るように伝える。鎌が見つからないと、探している様子。後ろの方で誰かが叫んだ。
「鎌は○○さん(本人の名誉の為実名を表記せず)が持っていたはずですが!」この時になって初めて○○行者の姿が見えないことに気付く。
●「○○さんはどこに!」 皆口々に話し始めた。
「○○さんは先に行ってたはずですが?」自身なさそうな返事が帰ってくる。一瞬、熊の足跡、遭難者霊(ともよびれい)等々の不吉な思いが脳裏を掠(かす)める。どうやら、先に行ったことには間違いないようだ。「オーイ」「○○さーん」ばらばらっと、その辺りに広がって、法螺吹き鳴らし、皆でかわるがわるに呼んでみるが、返事はなし。左へ行ってくれていれば良いが、もし間違って右へ進んだのであれば……
右山道へは多本先達、基樹先達、藤村先達を派遣する。
「今から30分、先へ行って追い付けない時は速やかに引き返すこと」
左奥駈道へは下宮副奉行、堀営繕奉行に荷物を背負ったままで進んでもらう。
「坂を降りきった所に嫁越峠の何か標示があると思います。そこにて待っていて下さい」
両組に法螺を一丁ずつ付けて、見つけた時、あるいは応援が必要になった時の合図を手短かに伝える。
坂口行者、知ってか知らずか一人横になって背中を伸ばす。走らせた人達(探しに行った者達)が不憫になって、つい声を荒立てる。※
※背中を伸ばすぐらいのことで、どうして声を荒立てるのかと疑問に思われる方もいるでしょう。思うに、廣開さんはこの時、極度に緊張していたはずです。その張りつめた気持ちが、つい、懐の深い坂口行者に向かってしまったようです。というのも、坂口行者は、普段からひょうひょうとした方で、廣開さんから何か言われても、それを根に持つことは決してなかったので、それに甘えてしまった(坂口行者は廣開さんより年配者)ものと思われます。いずれにいたしましても、廣開さんの緊張緩和のためには、実に有効だったろうと思います。「坂口行者、グッドジョブ」と私には、思われます。(矢崎)
踏み跡(足が踏んだ跡)は?…、後で気が付いて探って見たが、草と笹、判別不能であった。
不安な時間が過ぎて行く。残りの奉行達を集め、万が一、見つからない場合の対処を相談するが結論が出ない。ただじっと待つのも全員の不安が増すばかり。「残りの人は集合して下さい」先刻建立した錫杖の前でお祈りを始める。
「総奉行(廣開先生)!○○さんが帰ってきました」樋川副奉行の歓喜に満ちた叫び声に、お祈りを一時中断する。○○行者が、探索に出向いた下宮、堀両奉行の指示により、引き返してきた。
無事な様子に、皆安堵の声をあげる。右山道へ向かった捜索組には(引き返せの)連絡がいく。
○○行者、道中奉行より注意を受け、このあと行列の後部へ付くことを命じられる。
総奉行として、○○氏個人の過失のみにあらざりしこと考えつつも(あらかじめ単独行動を禁じておけば避けられたということでしょう)、今夜の幕営地において、般若心経百巻の行を命ず。
揃ったところで、改めてお祈りをやりなおす。
午前10時15分、奥守岳を出発する。赤スプレーで(奥駈道であることの)印をつけながら長い坂を降りる。標示板一枚分ずつ軽くなる。
熊の糞を確認。ちぎった笹を敷きつめた、熊の昼寝跡と思われる所では、獣の臭いが漂っていた。
午前10時28分、嫁越峠にて先行の両奉行(下宮・堀)と合流する。
奥駈の峰をはさんで背を合わす、十津川村と上北山村、昔の人は生活に命がけの山越えであっただろうと思いを巡らす。
「左谷下250m、水場あり」の標示あり。奉攸礼拝のみする。標示板・辻看板を掲げる。法螺が鳴り、出発する。
深くめり込んだ熊の足跡発見。急な上り坂を、小守岳へと向かう。
法螺の音が響く。熊生息の証(あかし)を見て、坂道、崖道の難所にもかかわらず、次第に法螺の音が多くなる。ハァハァしながら、「六根清浄」「六根清浄」、溜息まじりで歯をくいしばり。汗が流れて目に染みる。ハチマキでふき取ることさえ忘れて。
「皆、疲れが出ているので、小休止にしましょう!」不安定な急斜面に、自分の荷物を預けるだけの空間を見つけた我々一行は、一息入れた後、一挙に登り上がった。
ここの頂上付近は、一面短い笹が生い茂り、道が消えていた。立木のあちらこちらに、目印だけが付いている。以前通った人が、自分の歩いた通りに付けたのであろう。頂上には広いタワ( 山の尾根のくぼんで低くなった所 )があり、一見公園のような平地に出た。皆一斉に荷物を降ろし、草の上に足を伸ばす。広場の中央あたりに泥穴が掘ってある。おびただしい鹿の足跡と糞を見つけて。
「鹿の水場?」「お風呂かな?」と、色々な推測を交わす。のびのびとした楽園を思わせる光景に、先ほどの辛さもいつしか忘れる。
営繕奉行の配慮により、差し出された頭巾一杯の水。そのわずかな水がやけに美味しい。爽やかな風が吹く。
喉を潤し、ゆとりの出てきた人達は三々五々に寄り集まって、肩を揉み合ったり施真のやり合いをしている。安らんだ雰囲気を目にし、つい日頃の癖が出て、背中をトントン叩いていると、(女性行者の一人が)黙って背中を叩いてくれた。細やかな女性の気遣いに、「そうだ女性行者も加わっていたのだ」と、思い返して苦笑する。
長いとも短いとも言える時間が経過した。
「出発準備をしてくださーい」
しばらくは、道なき道を行く。
午後12時2分、第26行所小守岳(地蔵岳)に着く。奉攸納経をする。
下り坂
「危険箇所あーり」「左側注意」次から次へと申し送られる。
「熊の足跡、発けーん」
「法螺を吹いて下さーい」と、悲鳴に近い声が飛ぶ。
午後12時26分、平らな地を利用して昼食とする。
根こそぎ倒れた大木の陰で火を起こす。木の後ろにカモシカとおぼしき足跡あり。昼食の献立は、昨日食べ残したおにぎりとラーメン、食パン1枚ずつ。鍋が小さくて汁無しラーメンになる。
「水はおかわりを上げまーす」
持経へ着けば、確実に水の補給が出来ることを営繕奉行に伝える。水・食料については絶対の権限を持つ我が親愛なる営繕奉行、その奉行がこの時ばかりは優しくなった。携行する水の重さと皆の渇き、どちらをとっても苦痛の種。今日午後の飲み水さえ確保すれば、軽い方が良いに決まっている。
岩の上に登って行く先を眺める。晴れ渡り澄み切った空の下に、今行く峰々は堂々と連らなる。左手の谷間をぬって林道のうねりが見える。そのうねりを目で追って、持経の宿あたりを想い浮かべる。広大な山並みに感動を覚え、声をかけてみるが応じる人無し。疲れと満腹に気がゆるんだのか、あちらこちらで討ち死にの様子。軽い寝息もとび交っている。無理もない、夕べはろくに寝てないのだから。可愛いとも歯がゆいとも分からないまま、一人気を揉む。
出来るものなら……、このまま休ませてやりたいが……、恰好を付けて号令をかける。
「横になると疲れが益々ひどくなります。持経へ着けば存分に寝られますから、出発準備をして下さい」
午後1時30分、やっとのことで重い腰を上げた。
登り下りをくり返し、刈り上げされてない背より高い笹をくぐる。
午後2時30分、三叉路に至る。十津川村内原へ下る辻を横目に通り抜ける。
それらしい山は幾つかあって、第25行所般若岳はとうとう確認出来ないままに通り過ぎた。海原に漂う小舟のように、上り下り、後ろの人が見えたり隠れたり。
午後3時14分、第23行所篠(ささ)の宿跡、「ヒクタワ乾光門(けんこうもん)」に着く。「拝み返しの乾光門」は今は跡形も無く、剣光童子(けんこうどうじ)の小さな碑を祀るのみ。
大錫杖を建立する。奉攸納経をする。
午後4時10分、第24行所涅槃岳に着く。奉攸納経をする。
午後4時52分、証誠無漏岳(ホンミチ山)山頂を超える。辻看板を掲げ、三叉路を左へ取り、奥駈道を尚進む。
午後5時28分、トサカ尾、岩場に差し掛かる。朽ちかけた丸木橋に、トンと足を乗せる。後ろの目方(後ろから来る重量級の方を指していると思われる)にも大丈夫のようである。岩場を回り込むと崖っぷちに出た。名は知らないが、鎖で降りる行場である。人がすれ違うことも出来ないような場所であり、我々一行は、岩肌に張り付くような恰好のまま停止した。
若手先達が、安全のためロープを垂らす。安全の確認に鎖に手をかけ根元に目をやる(これは総奉行の動作だと思われます)。高橋行者、はや下に降り着き、上に目を向ける。
〝重量制限、まずはパス……〟※
※高橋行者はそれなりに体重があるので、総奉行はこのように判断されたのでしょう。
頭上に基樹先達、綱尻を掴んで腰を構える。
善田先達、降り着いて、下にて介錯する。
夕暮れの焦りと気負いが事故を呼ぶ。心許ない女性行者の荷物だけ先に降ろす。女性行者一人ずつ、ゆっくりと鎖をまたぐ。落石に注意しながら足を這わす。男性行者は荷物を背負ったままその後に続く。「呼び声が聞こえたぞー」
「法螺を吹けー」
教祖先生が出迎えて下さった。
午後6時、阿須迦利岳を越え、少ない懐中電燈を頼りに、声掛け合いながら下る。教祖先生、しんがりを歩かれる。
午後6時28分、待望の第22行所・持経の宿跡に着く。持経にて御令室と繁久君の御迎えを受ける。事前に建立の錫杖を確認する。小屋横の不動堂にて納経をする。小屋使用の御礼を兼ね、予め教祖先生のご教示を仰ぎ準備してきた御供をする。この小屋は、カマド、便所を備え、20名くらい収容できる。
夕食には暖かい御飯と団子汁。食後、全員に梨一個ずつの差し入れを戴く。久しぶりの甘味(あまみ)に舌鼓を打った。
ここから先、事前に運んでおいた荷物が増える。合わせて、今朝出発の慌ただしさにやたらと物を詰め込んだ為、必要な物の所在が分からない。おたおたする不手際さに、責任者として歌を歌する不手際さに教祖先生よりお叱りを受ける。
※歌を歌する 洞川弁か? 意味不明。
下宮、堀両奉行の力を借りて、恰好だけはどうにかまとめることができた。
この日は毛布があたり、女性は小屋の中、男性は外の広場にて、教祖先生の徹夜の焚き火のお陰で就寝することができた。
9月26日、朝焼けが美しい。午前5時、炊事始まる。炊事班以外の人は手分けして、焚き火の補充と小屋の整頓をする。朝食はラーメンと残りのパン。炊事班、昼食用の握り飯を作る。朝の納経を終える。
午前7時30分、教祖先生等の御見送りを受け、持経を後にする。
樋川副奉行、一足先に林道と奥駈道の分岐点に、昨夜製作した木製看板を設置する。林道を200mくらい歩み、切り崩された尾根を左へ登り込むと、南へと延びる奥駈道に達する。
この付近は道がはっきりしている。赤スプレー、道標を掲げながら 危険箇所を慎重に進む。
頂上(1186m)三叉路を右にたどる。
午前8時30分、第21行所・平治の宿跡に下り着く。奉攸納経をする。
木に西行法師の詩が掲げてある。ここにも無番の小屋と便所あり。谷へ下ると水補給も可能だが、今日の分は、持経より持って来てある。
休憩中、サルスベリの木で5、6本杖を作り希望者に記念に持たす。
午前8時55分、平治の宿跡を発つ。一番細い杖をついて、転法輪の坂、杖弓なりに耐える。
午前9時20分、転法輪岳頂に立つ。見晴らし良好。奉攸納経する。前方には行仙岳のマイクロ塔が見え、さらにその向こうには、それより高く笠捨山。右横に尾根を連ねる槍ヶ岳、地蔵岳を眺める。
「登頂の証に、全員で大錫杖を建立して下さーい」
一鍬運動ならぬ、穴掘りと石集めが始まった。
建立された錫杖とともに記念写真を撮る。
午前9時45分、同所出発する。危険な下りを行く。道脇の大木に生々しい熊の爪痕が残されている。
休憩の時、突然男性の悲鳴。一斉に振り向いた。坂口行者、木に寄りかかろうとしてバランスを崩し、真っ逆さまに転倒する。前後の人が慌てて足を掴んで引き止めた。状況は後で聞かされた。
場所によっては、大惨事になるところであった。個人の注意・不注意に関わらず、この先、常に22人分の心配が付きまとうことを、さらに心に刻み込む。
難所に達する。最近、新宮方面の有志の手によって付けられた真新しい鎖。
「杖は手送りで渡して下さーい」
「両手でしっかり鎖を掴んで」
手ぶらなら、行場慣れした行者達ではあるが、背に負う荷物が邪魔をする。
先に登った者が次の者に手を差し伸べる。鎖と友の手に助けられて全員やっと。
午前10時35分、倶利迦羅岳頂上を拝む。奉攸礼拝のみする。
左手眼下には吸い込まれそうな渓谷と池原ダムの堰堤(えんてい)を眺めて、高度はゆっくり下がって行く。振り返りふりかえり、無名の小嶺を幾つか越えた。
「休憩」の号令が掛ったわけではなかった。順々に、自然と膝を折ってしゃがんでいく。哀れな仲間の姿に「若先生、休憩にしましょうよ」と力無く樋川副奉行が助言を与えてくれた。何かにつけて、○○奉行××奉行と気負い込み、役称に慣らされたこの耳に、それは確かに〝苦衷(くちゅう)をいたわる仲間の声〟だった。「ここで小休止にします」。つくろい勇んで言ってはみたが震える足と溜息(ためいき)の下であった。
周りには無数の黒文字(くろもじ)の木がある。小枝を折って匂いを嗅ぐと、爽やかな香りが漂ってくる。小言も言わず瞼を閉じて立木にもたれる女性達に一枝ずつ、そーっと差し出す。「山の香水をプレゼント」これだけならばロマンチックな夢になったであろうが……
(「そーっと差し出す」という表現には、奉行の、〝しんどいことをさせてすま
ない〟と云う気持ちが表れているように思われます。しかし、自分の足も震えて
いるのに、皆が休んでいる間にも黒文字の枝を折って、女性一人一人にそれを渡
していく奉行もしんどかったろうと思われます。さぞや奉行も、列の後ろにい
て、「いんごらいんごら」言い乍ら歩きたかったでしょう……)
「男の人は自分で折って下さい」との後の言葉が夢から覚ます。他の奉行達、水を勧めてこまめに回る。荷物を点検して一列に整列する。営繕奉行、(皆の疲労を)察してか、列の前に進み出て来て、一人一人にアメ玉を配る。
午前11時52分、法螺の音に追い立てられてまた歩き始める。
午前12時15分、第20行所怒田宿跡に着く。金剛童子の碑が祀られている。奉攸納経をする。宿跡広場にて、握り飯の昼食をとる。昨日のペースからみて、今日の到着は7時~8時頃になることを話し合う。
炊事の困難を考えて御飯だけここで炊いて持って歩くことにする。※持参した6個の飯盒を火にかける。茶ビンは落としてきたと言うので、鍋で湯を沸かしコーヒーを作って空容器につめる。炊き上がった飯盒を分配し、そのうち一個をしっかりと背負子にくくり付ける。手分けして、焚き火の燃えかす、灰を土中に埋める。
午後1時40分、行仙めざして登り坂へ取り付く。横巻道を通らずに直進する。桧小植(ひのきこうえ) の中、道というよりは何人か歩いた程度の踏み跡を。踏み込みが効かず、踏ん張る足がずり落ちる。中腹に出て、また別れ道。左は緩やかな坂道を回り込んで頂上に至る。右は最近開かれたらしく谷のドラシを一挙に突き上る。道中先達よりどちらの道にするか判断を問われ、あえて右の難路を選ぶ。
この箇所は特に苦しかった。これまで担いできた奉納錫杖も杖にして髪の毛を地に這わすように。「まーあ、かーあ、はーあ、んーんんーん」と心もとなく、一歩一歩とヨタつきながら、山を蹴り下げる。
掠(かす)れ切り、声にならない般若心経。唱えるというよりは文字をつぎ合わすと言った方が当たっているかもしれない。それでも、いつしか頂上を踏んだ。
振り返り隙間なく後ろに続くうごめきを観て思わず胸が熱くなる。振り向くことも他の人を励ますこともできない(振り向けば涙を見せることになり、励ませば涙声になるからでしょう……)。孤独の空間だった。
第19行所、行仙岳頂には無線中継のマイクロ塔が建ってあり、コンクリートの道がある。大木に奉攸、納経をする。祈り前、あまりに場違いな光景に、「行所すでに存せず」と思ったが、祈り中、神の御導きありを確信する。
休憩の後。午後2時45分、出発する。遊歩道のような鉄の階段を降りる。浦向へ下る分岐を過ぎて、時々眼下に車道を眺める。
午後2時55分、佐田の辻に出る。奉攸・礼拝のみにして辻看板を掲ぐ。地図を広げ先行(さきゆき)を案ずる。五奉行相談の上、幕営と水補給のため、先発隊を出すことにする。基樹、弘賢、植田、藤村、徳田の以上五名を選出し、テント・水・容器・懐中電燈・非常用タイマツを持たす。迷ったときのため、要所要所に目印を残すことを言い含む。
続いて本体出発する。10mを過ぎ、左道上りに差し掛かる。左に空池あり。昔大蛇が住むと書かれてある。高圧線鉄塔横を過ぎる。谷をまたいだ右手の線上に、最大の難行場地蔵岳が見える。下ってはまた昇る。
午後3時45分、狭い平地に着く。大木の前に大峰八大金剛童子が祀られてあり。台石にコンクリート打ってある。奉攸納経をする。この前後だったと思うが、かろうじて幕営可能な地所あり。先へゆっくり進む。
午後4時28分、展望の良い尾根に出る。さらに行くと断崖に立つ。(道消える?)と思えば右に折れ曲がって現れる。
断崖には岩頭を千尋の谷に突き出して、南無八大童子の碑が祀られてある。その突き出た岩に根を張り、さらに古木が突き出している。自然のなせる業。絶景。足がすくむ。奉攸・礼拝のみする。
列を止めて荷物をおろし、女性の通行に一人一人介錯をする。
怖さ見たさの女性の姿 無邪気の姿が猶怖い
全員無事通過。密かに胸をなでおろす。名のある行場であろう。岩場の馬の背が続く、「右危険」「左危険」と、注意を促す声が前後にとび交う。岩上に翼を休める岩ツバメのように群がって休憩を取る。「荷物を落とさないように」「立ち動いてはいけません」一つ向こうの笠捨山を見上げる。笠捨山の頂はだんだん霧が濃くなってくる。
(先発隊は、そろそろ頂上に達する頃か……)夕暮れの笠捨山に向かって法螺が吹き鳴らされる。
(必ず聞こえるであろう……)
(安心して先を急ぐであろう……)
昼、沸かしてきたコーヒーの配給を受ける。どんなコーヒーより美味しい気がする。暗くなると皆の不安は募(つの)る。そこで、
「あれを超えれば到着します」
「最後の一息頑張りましょう」と励ますつもりで元気に立つが、あれが名高い笠捨ての山。あまりのしんどさに笠さえ捨てたくなるので、こう呼ばれるようになったという。〝今こんなことが言えるものか…〟
六根清浄、六根清浄。遅い足取りではあるが、歩けばいつかは越えられる。先発隊の目印を確認しつつ杖を突き出す。この頃より樋川副奉行、一人先を急ぎ出す。
● 道に山の幸シブレの実が置いてある。道々硬かったシブレも、この辺りまで来ると熟れ始めている。甘酸っぱい小さな粒は、喉の渇きに幸をもたらす。先発組の思いやりを2・3粒ずつ皆で味わう。登れどもなおまた登り、夕闇が迫る。(編シブレを置いたのは先発隊)
今度は水とトイレットペーパーに通過時刻と走り書きがあった。
『皆さん喉をうるおしてください。徳田』。
優しい女の人達曰く、
「可愛そうに。後を気遣って自分達の分を置いて行ってくれたよ」
「?……、何を小癪な、格好つけて。シブレを食べて散々飲んで、重荷になるんで置いて行ったんジャ」
「ホーント、ホント」
「折角だから、飲んでやろうよ」
「あのアホ、今頃クシャミしてるよ」とまでは言わなかった。
空が見える、頂上近し。
先発隊・樋川副奉行とも、心配した分かれ道も無事通過したことを確認する。「もう少し」「もう少し」と励ましながら。言う方も、問う方も、当てにならない「もう少し」。とうとう、その「もう少し」へ着いてしまった。
午後6時、第18行所笠捨山(仙ヶ岳)の山頂を踏みしめる。(ヤッターの声上がる ) 霧の中に法螺が鳴る。先発隊は板切れに色々勝手な落書きをしてある。
(登りきってゆとりが出たな)
荷物を降ろした人が、笑いながら読んでいる。
「皆さん、お疲れでしょうが、難行克服の証(あかし)、全員で一鍬ずつ 大錫杖を建てて下さい」
大錫杖建立す。奉攸納経をする。陽がとっぷり暮れていた。
祈っているとき(目の前に、神仏おわします)と、二度目に思ったのがここだった。
「法螺を吹いて下さーい」
「間隔を詰めて下さい。ただ今より私語を禁止します」
闇の中7・8個の懐中電燈を頼りに、今日最後の下りに踏み出した。
「六~根~清~浄~。六~根~清~浄~」尻上り、尻下り、交互に繰り返される合唱は疲れ切った全員の足並みを揃え、17名の行者をまるで一匹の大きな虫のように、一歩一歩と前へ送り出す。
今は不安も忘れ、恐れも忘れて、張り上げる声は、谷の底へと吸い込まれていく。石車に乗って尻もちをつく。手を貸そうとして、今度は自分が荷物に押し倒されそうになる。
「気をつけて」
「左足」
「笹を踏むな」
懐中電灯の明かりが気ぜわしく、前に後ろに交差する。先達は螺緒たぐって危険に備える。手を伸ばし、声をかけ、自分が倒れながら他人の心配をする。誰もが命じられてそうなったのではない。無意識にそうしなければならない状況がそこにあった。
仲間ゆえ…
否、人ゆえか…。
歩き知った道ではあった…。
だが…?下れども下れども闇の中…
ふと思う。
自分は、途方もない思い違いをしているのではないか…
先発隊は無事、目的地に着いてくれただろうか…
人選に間違いはなかったと思うが…
確かに、ここは一本道であったはず…
昼間なら、すぐそこに地蔵岳が見えるはず…
何度も何度も頭の中に地形を描いてみる。険しい山中に迷い込み飢えと寒さにのたうちながら泣き叫ぶ皆の姿と、幕営の火を囲み笑顔で語らう皆の姿が、頭の中を駆けめぐる。
腕時計を見る。
先発隊の燈(懐中電燈の燈)はまだ見えず。
………
かすかな呼び声が聞こえた。顔を見合わす。一段と強く(先発隊の)法螺が吹かれた。こちらからも呼び返す。闇の山中、上と下、励まし合いの六根清浄。首を伸ばすが燈はなお見えず。六根清浄に力が入る。
午後7時、幕営予定地、葛川辻にやっと着いた。先着の樋川副奉行と藤村行者の出迎えを受ける。道両脇の杉並木を上手に利用して、テントはすでに張られてあった。中には、火が赤々と焚かれてあった。後ろの歓声を聞き流し、周囲に目を配る。行列のままテント内をくぐり抜けた。荷物を一箇所にまとめて下ろし、全員休む間もなく準備に取り掛かる。しばらく混乱する。
女性達によって夕食の支度が始められる。
男性たちは薪集めのため、てんでに(めいめいに。思い思いに。)懐中電燈と鋸(のこぎり)、斧を持って山の中へ散らばって行く。
「単独で行かずに、2・3人で組んで行って下さい」後を追いかけて声をかける。
先ずはさて、営繕奉行と忙(せわ)しなく、食事の準備に立ち回る女性達の顔を見る。
むくんだ顔と、目の下に出来たうす黒い隅に胸が痛んで、掛ける言葉見つからず。
樋川副奉行、なにやら心配を隠せない様子。先発隊の基樹、弘賢、植田、徳田以上4名の先達、幕張後すぐ飲料水補給のため上葛川谷へ向かい一時間あまりを過ぎ、まだ戻らないとのこと。※
副奉行、「迎えに行く」と言うのを引き止める。
※大変な重労働であったろうと思われます。4名の男性は、さぞや〝女だったらよかった〟と思われたことでしょう。
「間違いはないと思いますが、僕(総奉行のこと)が行きます。樋川先生は幕営の総指揮を取ってください」
「じゃあ誰か連れて行ってください」
「一人で大丈夫です」
「いや、誰か連れて行って下さい」
先発組各々の責任感と帰着が遅れる原因を併せて考えてみる。副奉行は、坂野行者と藤村行者を選んでくれた。松広行者も申し出てくれたが、明日の体調を考えて残ってもらう。
先発組各々の名を呼びながら夜道を辿る。進めどもなかなか返事なく。だんだん本体残留組に動揺が起きてないかと心配になってくる。
※当時、携帯を使っておりませんでした。
途中、乏しくなった乾電池を交換し、何かの時の目印に道に捨てておく。
20数分後、返答あり。やがて合流する。
先発隊の面々は、〝本隊は着いたかな?着いていれば皆心配してるなぁ〟と気にかけ、急いで登って来たことは聞かなくてもわかる。植田先達が悪い目で、足を踏み外し転倒した由。無事で良かった。
谷を隔てて呼び合いながら、本隊のもとへ……。
午後9時、皆の暖かい出迎えを受けて、水を携え本隊に帰着する。これがテレビドラマなら拍手喝采の名場面のはず。あの時拍手が有ったのか無かったのか覚えていない。
幕営地では三次隊が選別され、待機中であったことを聞かされる。基樹先達、水漏れ容器に気付かず背中ビショビショ。
熱いコーヒーが沸かされていた。4人とも火にあたり畏敬の眼に囲まれて、差し出されたコーヒーを、「旨い、旨い」と2杯ずつも(原稿に間違いなく「も」ってありました)飲んでいた。
徳田先達が言っていた、「僕はコーヒーは飲まないけど、こんな美味しいコーヒーは初めてだ」って。
『美味しいはずだ。さっき○○ちゃんが、中に××落として、△△で搔きまわしていた』。(見当がつきませんでした。読者の皆さんで勝手に考えて下さい)
テントの内と外、2ヶ所に焚かれた焚き火を囲んで夕食を戴く。御飯とだんご汁。ヒリヒリの唐辛子。ニンニク。
営繕奉行「食器を洗う水は有りませんから、残さないで食べて下さい」とは言っても、9時間も食べずに歩いて来た後で、残す者など誰もなかった。
食後、男性達でもう少し薪を作る。
非常用に持参したウイスキー。少しずつ分配される。
年配者と女性達、テントの中で横になり始める。ホカロンが配られた様子。意外に風が強いのに気付く。私(総奉行)、下宮、堀の両奉行、丹下救護奉行、本山の若手先達で外の火を囲み、片側に風よけのシートを張る。
木陰より月が時々顔を出す。ぼつぼつ話も途切れて、皆横になりだす。テントの中より「寒い」とささやく声が聞こえる。私と植田先生と2人で、杉の木に登って青しばを打ち、火に暖めて震える人達に差し入れする。
火の側でエビのようになって寝る。秀樹君の裂けたズボンから片方の尻がはみ出している。おかしくも有りおかしくも無し。
吹く風の寒さに震えて場所も無し
失火こわくて 寝つかれず
木にもたれ、ひとりウイスキーの残りを少しずつ飲む。
眼は弛(たる)めども 心が冴えて眠られず
立ったり座ったり
朝待ちわびて夜をあかす ※
※えーっ、寝てないじゃん
● 9月27日(くもり)
午前4時30分、ぼつぼつ皆起き出す。
午前5時、昨夜の4名また水汲みに行く。昨日の水は夕・朝に使い、 今日の分を新たに確保しておかなければならない。
樋川副奉行、数名連れて本辻に小錫杖を建立する。
他の班、テントをたたみ整理にかかる。炊事の準備も併せ始まる。
午前6時30分、水補給班帰着。(編90分かかってます。大変だぁ)
朝食は雑炊。残り物の食パン。ふ等入れて煮込む。
雑炊を一杯ずつ配る。残量に、それぞれ遠慮している様子。女性の知恵、水で増やしておかわり配る。その後、お茶の代わりに水を飲んで食器を濯(すす)ぐ。(苦労を知る者、物の冥加も心得てあり)
お美しく、几帳面なわが偉大なる炊事班は、トイレットペーパーで食器を拭いていた。
午前7時25分、槍ヶ岳、地蔵岳の難行場、引き上げ準備のために、多本、基樹、植田、徳田、坂野、以上の5名を先発として送り出す。
本隊出発前、念のため、もう一度全員であたりを探す。ペンチとナタが淋しそうに出てきた。
補助足(杖)を探す。杖はかわいそうに焚き火跡から、30cmほどの燃えカスになって見つかる。涙をのんで別れを告げる。
午前7時45分、幕営地・葛川辻を出発する。どの顔もこの顔も元気一杯で……ではなかった。肩を落として、とぼとぼと。重い心に全員の顔がのしかかる。
地蔵岳に奉納する小錫杖を右手に下げる。後ろから端をそっと持ってくれる。別に軽くはならないけれど、気持ちだけは有り難い。幾分 心が楽になる。石楠花繁る尾根を伝い、槍横難路を超える。
午前8時40分、本行最大の難行場である地蔵岳の登りに至る。木の枝を縫って谷を渡し、すでにロープは堂々?と張り巡らされてあった。
先発5先達は、それぞれに足場を固めて待機していた。
まず女性行者の荷物をおろし、岩壁を横切らし、金剛童子の碑の前に揃って待たす。錫杖を滑車とし、順番に荷送りが始まった。
「落ちた!」多本先達の叫び声に一瞬、総身に戦慄が走った。すぐにテントと分かり、荷物で良かったと胸を撫で下ろす。
本線のロープが切れた。荷物は谷のドラシに引っかかったまま、引き寄せ用の細いロープで、多本先達と向こうへ渡った女性達が、谷をはさんで引き合っていた。
「螺緒(かいのう)を投げて下さい!」後方の人達に応援を求め、足元の木の根に螺緒をくくり付けて谷に降りる。危機一髪であった。荷物は張り合った細いロープのお陰で、本来なら止まる筈のない所に止まっていた。
引き上げてもらうため、荷物の下に回って片方ほどく。(両方外れたら…それまでか)谷底を見る。だが不思議と恐怖は湧かなかった。連続変化のこの行場。あちらを気がけりゃそちらが怖し、そちらを気がけりゃあちらが怖し。ヒヤヒヤしながら行ったり来たりで、やっと頂上に辿り着く。
先着者を休ませ、下に置いてきた自分の荷物を取りに降りる。基樹 先達と徳田先達、荷物を背負って、束になった杖、奉納錫杖とロープを回収し、その上おまけの荷物にフウフウしながら登ってくる。
午前9時20分、第16行所地蔵岳頂上にて後から到着した者と共に汗を拭く。この頂は非常に狭い。我が一行は、岩陰に鎮まる地蔵尊の前に長々と伸びた。前後の連絡行き渡らず、勝手な私語ばかり飛び交う。
「荷物を下ろして座って下さい」
「錫杖を立てる人以外は動かないでくださーい」狭い場所にひしめき合って、終始ハラハラする。飲み水を配られて落ち着きを取り戻す。小錫杖建立し、奉攸納経をする。
行列順序変えられず、しばらくそのまま進行する。鎖行場も何箇所かあり、先の先達たちロープを張り張りうまく進行する。
昨日より女性に託してあった赤のスプレーを所々に塗って行く。
午前10時27分、第15業所四阿の宿跡に着く。奉攸納経をする。高橋行者、得意の居眠り。お祈り中に立って舟をこぐ。小休止する。
午前10時55分、同所を出発。
午前11時3分、第14行所菊ヶ池跡。あっという間に着く。奉攸礼拝 のみする。池を探してみたが、植え込みの中にわずかな窪地があるのみ。
午前11時11分、拝み返し着。奉攸礼拝のみ。見晴らし台のような大石あり。木が生い繁り、遠望のぞめず。
午前11時25分、桧(ひのき)の宿跡に着く。奉攸礼拝のみす。広い場所もなくただ道端に桧の宿跡という名を刻む新しい碑が立つのみ。
午前11時53分、第13行所香精(こうせい)山に着く。奉攸納経をする。予定より時間遅れ、先を急がす。下り道端に錆び付いた熊の檻が置き捨ててあった。分岐。右の道・林の中の巻道を通って。
午後12時45分、貝吹野に着く。大岩に奉攸、礼拝のみする。転がりそうな急坂を皆気にかけつつ下る。
午後12時55分、貝吹金剛へ着く。壮年杉、森の中に傾いた金剛童子の碑あり。木に奉攸礼拝のみして、昼食を広げる。各自おにぎり2つずつ。空腹なのに喉を通らず。タクアンとともに無理に飲み込み、水を飲む。どの顔もどの顔も疲れ切った様子。うらめしそうな視線を受ける。※ただ一人鼾(いびき)をかいて笑いを誘う高橋行者の地蔵顔(よだれかけでも、つけてやろうか) 。藤村行者、捻挫した足をさすって、端の方に休む。おにぎりを食べ終えて空荷になった道中奉行、藤村行事をかばってここより荷物を取り替える。
午後1時33分、焦る気を抑えて。道中奉行に出発を促す※。重い音色の法螺を聞く※。一つ山を越え、長い長い急勾配の斜面をどんどん下りて行く。古屋はまだか古屋はまだか。(南奥駈道では一番長い坂道)地図を出し行き過ぎたのではないかと調べてみる。道端の木にリュックがかけてある。
「この前の様に、先生からの差し入れでは?」と弘賢先達、中を調べる。差し入れであるはずがない。あるとするなら、もっと下の古野のあたり。列を止めずに先へと急ぐ。
「山仕事の人の物だった」と追いついてくる。
午後2時32分、第12行所 やっと、古屋宿跡に着く。奉攸、納経をする。水とガム2枚ずつの配給を受けた。トボトボとした歩みは続く。
振り向けど言葉出てこず
ただ眼を合わす
急(せか)す心がなおつらい
左の谷合に点在する上葛川の家々を、黙って眺めながら歩く。
午後3時5分、第11行所 如意宝珠岳(千眺の森)に着く。奉攸納経 をする。
休憩し、タバコを一服つける。下に自動車の音を聞く。
「奉行、お迎えの方達とは何時に持ち合わせですか」
「2時の予定だったんですが」
「あとどれくらいかかりますか」
気力なく 額を押さえうなだれる
やつれた 背に 背に
返答(こたえ) 戸惑う
それでも歩いていた。笑い声のとだえた道だった。
午後3時29分、岩ノ口(蜘蛛の口)に着く。下りきった地点である。測量の人が2人棒を立てていた。「こんにちは」「ご苦労様ですね」次々にかけられる挨拶に何度もこたえながら、(2人は)異形(いぎょう)の集団を見るように道を譲って手を止めた。
奉攸、礼拝のみ。「一同、二拍手一拝」
「? どこから来たんですか」
「前鬼からですよ」
「ハァ…?」益々分からないような顔をして、見送っていた。
桧林の上り道「廣開先生、あの~どこか……」
「ハイ、もうちょっと……」後ろの声にハッとした。(迂闊であった)他にも我慢があったことを思い出す。〝編トイレ休憩でしょう〟地蔵尊の祠を過ぎる。
午後3時47分、稚児(ちご)の森に着く。奉攸、礼拝のみ。腰を下ろさず先へと進む。
「あれ?」
基樹、多本先達、立ち止まって、地図と照らして首を傾げる。右手に突然車道が現れる。道切り取りのダンプが行き交う。
「一瞬、道を間違えて部落へ下ったのかと思った」力ない笑い。皆それぞれ顔を見合わせ話し合う。
小川トンネルより花折へ延びる・林道大谷線かと推測する。
「奥駈道を壊された」枝踏み折ってガサヤブの中を行く。
女性達、枝にはばまれ、よろける。前に倒れている枯木をくぐろうか、あるいはまたごうかと思案に迷う様を見て、声は届けど手は届かず。再び奥駈道に出て小休止する。足、投げ出す者。空、仰ぐ者。
(教祖先生を始め迎えの人達。さぞ今頃は……)
「先発隊を出しましょうか?」
「……………」
「先発隊を出しましょうか」
「……いや、このまま一団となって行きましょう」
同じことを考えて気遣う各奉行達の意見を退ける。
「道中先達たちの螺緒(カイノオ)を解いて下さい」
「こうして全員カイノオに手を掛けて下さい」
数本の螺緒を伸ばし、皆順番に手を添えた。
「急がず、ゆっくり行きましょう」
「シュッパーツ!」
それぞれが握る綱を引いて歩き出す。
「…………」
呼び声が聞こえた。
「今、声が聞こえませんでしたか?」
「 聞こえたようですね」
「後ろのラジオじゃないの」
「相撲をかけてるよ」
「ラジオの声かなぁ…?」
「ラジオを切って下さーい」
午後4時37分、水呑童子前を過ぎる。車のクラクションを聞く。
「合図だ!!」
「合図が聞こえた。法螺を吹いてくださーい。」
二丁の法螺貝が吹き鳴らされた。
「返事をしている。喜びに、後ろの方で興奮気味の声が上がる。
「オオーイ」「オオーイ」「オーイ」誰彼言わず呼び出した。
確かに答えている。何度も何度も車のクラクションが鳴っている。聞こえる音はまだ遠かった。あの山の、もう一つ向こうの高い山に、車道らしき土肌をみとめる。
同胞が しっかり握る索条が
大きな山にむすばれた 索条 ワイヤロープのこと
「 六~根~清~浄~ 六~根~清~浄~ 六~根~清~浄~ 」
どこにこんな力があったのか……
重い足取りに力が甦った。巨大な虫がまた這い出した。
「ブウウーン ブウーウウン」
法螺の響きが尻を押す。巨大な虫の尻を押す。
(六根清浄、杖を突け。六根清浄、綱を引け。六根清浄、山が鳴る)(みんなが唱える六根清浄。声につられてあの山が、引き寄せられてやって来た)
午後5時5分、山中に教祖先生道を譲っての御出迎えを受ける(編先生が道の端に寄ってくれたということ)。
頭を下げて、その前を通る。止まれなかった……。
振り返れなかった。開いても開いても潤む目に……
一人一人が教祖先生の暖かいねぎらいのお言葉を受け、ただ感涙に胸を詰まらせているだろう。感慨(かんがい)に浸っているだろう。※
午後6時25分 花折、新開道に着く。全員の荷物を解き、迎えのトラックに積み込む。迎えの人達より、缶ジュースの振る舞いを受ける。車道より、登ってすぐ。
午後6時30分 花折り塚に着く。石碑前に御攸を納め納経をする。お祈りが終ってから気付く。
「たしか最後の御攸でしたねえ」
「はい、そうですよ」
本山出発時む、奉納所の数が分らずに、余るだろうと適当に35体準備したうちの最後の御攸(おふだ)であった。
「黒岩先生、間違いました。その御攸は最後の玉置山に納める分です」
納めた御攸をまたたばってもらう(回収するということ)。花折塚は靡行場ではない。南北朝の頃、この地に散った忠臣の塚であることを、その名の由来に書かれてあり。通る人が花を手向(たむ)けると聞く。
教祖先生、折花たずさえ後より様子を見に来られる。5台の車に迎えられて、玉置山駐車場へ向う。懐中電燈をたよりに鈴の音ならして参道を急ぐ。下宮副奉行、法螺口とりて、境内へと導く。
山に伏し 靡を越えた法螺の音は
闇を揺るがし 老樹 聞き耳を立てる
午後7時3分、本行終着地第10行所玉置山本殿に並ぶ。彼岸到達・満行御礼のお祈りをする。 祈り中
今ここに神 天下らせ給う
と、三度目に思ったのがここだった。
樋川福奉行と上嶋道中奉行、社務所へ挨拶に行く。参拝者一同として御供弐萬円をする。
車にて十津川へ向かう。
(着いてまた幕営の労。川原にて待つ他の出迎えの人達を想う)
午後8時30分、十津川村下湯の川原に着く。教祖先生以下、出迎え 者15名の接待を受けて、川原に湧き出る湯に入りてくつろぐ。人々を眺める。
9月28日(晴れ)午前9時30分 十津川出発し帰途につく。ワゴン車の中で目薬を指す。
午前11時7分、笹の滝に着く。遊歩する。滝おち口より、太陽ランランと輝く。
午後1時43分、全員無事、本山に帰着する。御神前において、帰山報告と御礼のお祈りをする。
回峰5日間
砂庭(ここ)に至りて
この二十三魂(ことだま) 神につながる
昭和61年9月28日 南奥駈け回峰行を解く
尚、本来ならば神経「衰弱」とすべきところを、あえて本地垂迹(ほんじすいじゃく)の「垂迹」と表記した理由については、廣開先生に伺っておりません。とても神経的に疲れたので「衰弱」としたかったのでしょう。しかし、後世に残す奥駈行の記録の題名としては不都合だと考え、同じ音の「垂迹」とされたものと、私(矢崎)は考えております。