御山を支えられた方々を偲んで
神直先生のお人柄は、先生から御教示を受けた方々の御生涯を通じても推し量れるように思われます。そこで、全てではありませんが、『まことのこころ』に掲載された方々をここで紹介させて頂きます。なお、蛇之倉七尾山では、御神域の拡張工事、参道の拡幅工事、参篭所建築等々、実に様々な工事において、業者でなければできないこと以外は、教祖先生を始めとする蛇之倉山役員、信徒信者達が自らの手で施工いたしました。文中の※は、矢崎がつけたものです。
大田先生のご遺徳を偲んで
樋川由次(宰教) 第38号(西暦1988年)
丁度一年前、大田義交(おおたぎこう)先生は白鬚(しらひげ)大神様の御神域拡張の実現に燃えていました。
長い年月を山仕事できたえ、ガッシリした体格からにじみ出る若さは、話題に上ることしばしばでしたが、山仕事から想像しやすい荒々しい気質は微塵もなく、どなたにも「ご苦労様です。お願いします」と頭を低く下げて話す仕草が、とても印象的で、しかも、さわやかな感情が伝わって来たものです。
凍てつく雪の谷間(たにあい)を、白鬚大神様の工事に必要な架線を設置するため、若者のように生き生きとして現地の調査に専念する大田先生の、温厚な笑顔が忘れられません。
架線設置コースの具体案が検討される最中、私も何度か大田先生と一緒にコースの下見にご一緒させて頂きましたが、さすが山で鍛えられた大田先生には、後に続くことが苦しいほどの速さで登られまして。そして、何回も「わしは、うとっぽ※なんで力を貸して下さい、お願いしますよ」と、くり返されました。
※うとっぽ 頭の悪い人のこと
みんなの願いが神様の御心に届いたのでしょう、建設資材を荷上げする架線は、うなりを立てて働き続けました。その結果、寒暑を克服して、見事に白鬚大神様の御境内地は拡張され、歓声がとどろき渡りました。
誰にも優しく接して下さった大田先生ですが、ご自身の信念を貫き通すことには全身全霊を捧げられ、年輪を重ねて生きてきた大樹を思わせるものがありました。しかし、楽しい集いの場所では、真似のできないユーモアでみんなの心を包む巾の広さを知る人は少なくない。「誠にすまんですが、いつでも結構ですから、大田義交と書いて下さい、すんませんな」と工事の時に使うヘルメットを私に差し出す大田先生のゑびす顔に、私は男の心意気を感ぜずにはいられなかった※。
※樋川先生は達筆だったので、お願いしたのでしょう。黒色のエナメルで名前を書かれました。
総務総長としての重責を背負って忍の一字に徹してこられた大田先生の蛇之倉七尾山(白鬚大神様御境内地拡張)への思いは、別離のための準備ではなかっただろうか。
しめやかな大田先生の告別式当日、前夜からの悲しみの降雨は止み冬の洞川にはめずらしく暖かな、不思議としか言いようのない一日でした。教祖先生のお話によりますと、告別式の折、大田先生の御自宅あたりから奥之院に向けて美しい虹がかかり、この世の最後の別れの時までも、神々が見守って下さったそうです。
白鬚大神様御境内地拡張の完成を知り、大往生を遂げられた大田先生のご遺徳を偲びつつ、後に続く私共のど根性を見守っていただきたいと願うものです。 合 掌
追悼 西中久仁枝様
第39号(西暦1988年)
同志の誰からも、「西中のおばあちゃん」と親しまれ、人付き合いの良かった西中久仁枝様は5月23日御家族に看とられて、天寿を全うされました。哀悼の意を持ってここに御報告させていただきます。
故おばあちゃんは10年程前、御主人をなくされてより信仰一途に打ち込んで参りました。本山の大祭には必ず参拝し、北陸別格や向山不動尊の巡拝・四国巡礼にはいつも同行し、特に甲斐やすらぎの宮開山の頃には、度々東京より通われ、本山の先生方や山梨の先生方と共に土方作業に汗を流されました。
昭和59年、本山の行者研修会に参加して一週間の修行に耐え、施真加持法の真力(まじから)を受けられました。
「早朝の水行は辛く、昼間の講義では眠いこともあったが、施真導師として、多くの人様に施真をさせて頂くと、不思議な力(真力)でだんだん良くなっていくのが嬉しくて。病気で弱かった私をここまで御導きくださった教祖先生に、東京の地から毎日手を合わせています」と、お元気な頃話しておられました。
西中久仁枝様、ご冥福をお祈り申し上げます。 合 掌
樫本光照先生(総本山副管長)を偲んで
護神会会長 樋川由次 第44号(西暦1989年)
昭和二十九年七月、本山奥之院参拝の折、奇しくも管長先生(初代)とお合いになられた樫本光照先生は、大東亜戦争という非常時の時代に、すでに本山を支える御一方としてその縁が結ばれていたのでしょうか。中国において管長先生とお会いになられていました。
信仰一筋に生きぬく強いご信念がともすれば「厳しい先生」とか、「頑固な先生」とかと受け取られがちでしたが、現在、各地で活躍されている先生方の育ての親であり、本山の発展に生涯をかけて尽力された御一方です。そして御法の伝授には微塵も間違いを許さない修験者の鑑でございました。
「お風呂をいただきましょうか、女性に誘われるなら愉しいでしょうけんど、わしとなら味もそっけもありませんな ハハハ……」
本山研修の四日目、思いもよらぬ樫本先生からのお誘いをいただき、唯々恐縮しながらお供させて頂きました。一寸のすきも与えられないような受講の時の樫本先生の鋭い眼光が、まるでわたしを包み込むような柔かさに変わっている。
「樫本先生、お背中を流させて下さい」
どうせ断られるに決まっている、断られたら肩を叩かせて頂こう。そう思って言ってみたところ。
「いやあ、やってくれますか、すんませんナ」
意外である。無量の親近感が湧く。無駄のない引き締まった背中が一枚の岩のように思えてならない。
美声で冗談を交え、今のわたしを予言された樫本先生を想うと、合掌してしばし時の過ぎるのを忘れてしまいます。
本山副管長に就任された樫本先生にお会いしたとき、少しも衰えのない信念を感じ、よろこび一しおでございました。
昭和六十四年二月二十六日、本山司法の守り柱である樫本光照先生は天寿を全うされ永眠されましたが、私達の心の中に樫本先生のご遺徳は、いつまでも消えることなく輝き続けて下さることでしょう。 合 掌
〇樫本先生は、お亡くなりになられてから数か月後、神直先生がお滝場に籠られると、小屋においでになられ、「私達が、不甲斐ないために、先生をこのような狭い場所に閉じ込めてしまって申し訳ありません」と仰ったそうです。
西川照水先生(本山元審査委員長)御逝去
編集部 第63号(西暦1992年)
謹んで同志全般の心と共に、ご冥福をお祈り申し上げます。
故、西川先生はお若い頃より荒行を重ねられ、当山におきましては礎となり、先駆者となりして努めてこられました。また法螺導師として大峰山系一の行者とも言われ、そのやさしい澄んだ音色は、自然の中に溶け込んでいくように安らぎを感じさせて下さいました。
残された偉業の中には御神体を手がけられたこともあり、行者として、また本業の彫刻師として最高の栄誉を残される事となりました。
そのように西川先生が行者として歩まれた道は、後輩行者達の心の中に法螺の音とともに受け継がれていくことでしょう。 合 掌
母を偲んで 藤原恵美22歳
第84号(西暦1996年)
平成七年六月二十八日朝、父に呼び起こされた私は母のベッドに歩み寄りました。
どう見てもいつもと変わらずぐっすりと眠っている様にしか見えないのに、母に触れると今まで私が感じたこともないほど冷たくなっていました。どんなに揺すってもさすっても母の体は冷たく、固く目を閉じたままでした。ただ顔の表情だけは今までで一番優しく温かい顔をしていました。このショックは大きかったけれど、母が一生懸命生きた最後を、集まってくれた多くの人々と、涙ではなくこの目でしっかりと見送ろうと思いました。母の寝ているような笑顔は、病から解放され、人生を力一杯生きぬき満足している顔に見えたのでした。
あれから一年半、私は自分との戦いでした。母を亡くした悲しみは 月日が経つほどに私の中で大きくなっていきました。楽しそうな家族連れを見てはうらやましく思い、孫を抱いて喜んでいる人を見れば母にも孫を抱かせたかったと思いました。今まで家族のために働いてくれたから、これから自分の好きなことをして欲しかった。旅行にも行かせたかったし、また服も買ってあげたかった‥‥。
母の作ってくれた手提げ袋がうれしかったこと、運動会の前の日、夜遅くまでお寿司を作ってくれたこと、秋には一緒にコロ柿を作ったり漬物をつけたこと、家を離れた私や兄のために好きな物を作って待っていてくれたことなど、次から次と思い出し涙がこぼれる日々でした。
今母を想う時いつも母は笑顔でしたし弱音を言うこともありませんでした。私が「今度の試験はダメかも―」と嘆くと、母は「ダメでも一生懸命やればそれでいいんだよ」と私に精一杯頑張ることの大切さを教えてくれました。
私の記憶にある母の人生とは、家事一切と父の仕事の手伝いと全て 家族のためで、自分のために費やした時間はほとんどなく、ちょっと手があくと私達にもよく施真をしてくれました。
人との付き合い方が上手だった母。誰かが具合が悪いと聞けば施真をしてあげ、その人の友人、そのまた知人へと輪が広がり、よく出かけたり、また家に来てもらって施真をしておりました。
その頃、施真の本当のありがたさを知らなかった私は、施真を受けに人がくれば、テレビも見ていられず、母が施真に出かければ夕飯の後片づけがまわってきて、それが頻繁になった頃、母に「えー、今日もまた行くの?」と嫌な顔をした私に、母は自分の体の疲れを見せず「そうだよ、今日は〇〇さんのところに行ってくるね。後片づけ頼んだね」と笑いながら私に言って出かけたのです。そんな母の姿を見ると、面倒くさく腹立たしい気持ちが不思議と消えたのを覚えています。母自身は施真をしてもらったことは少なかったと思います。私が時々肩をもんでやると「痛い、痛い」と顔をしかめながらも喜んでくれました。
母が施真をした方々から聞いても、私の記憶からも、母は自分のことより周囲の人のことを常に思っていたことに、母を亡くした今気がつきました。
母の死、それは私にとってとても悲しくつらいことだけど、それ以上にたくさんのことを私に教えてくれました。学校では教えてくれないことを母は言葉ではなく身をもって教えてくれました。
私が母を亡くして悲しく思う気持ちも、母が私のそばにいられなくて悲しく思う気持ちも同じことに気づき、私が泣いてばかりいては母を悲しませてしまいます。だから、これからは泣かないで、母の様に優しく温かい人になれるよう頑張っていきたいです。
私が、母を亡くして悲しく寂しく思う気持ちは、きっと水子さんの寂しい気持ちと一緒だと思います。だから、御先祖様に手を合わす時は水子さんにも言葉をかけ、今まで以上にお祈りをしていきたいと思います。 合 掌
御礼と感謝を込めて
橿原市 瓜阪忠澄 第87号(西暦1997年)
昨年十二月十五日、母ハマ儀九十三歳※ 天寿を全うし永眠いたしました。 ※瓜阪ハマ様は、神直先生御令室の御母堂様です。
母が蛇之倉山と御縁を結ばして戴きまして足掛け四十年になろうとしていました。母を偲ぶ時、蛇之倉七尾山を離れて考えられません。
晩年になっても年に四・五回はお山へお邪魔して、道場へお参りし、神直先生や帰山された諸先生方とお話をしたり、恒例の大祭時には親睦会でのカラオケを大変楽しみにして、いつも前の方へ座って大いに楽しみ、自身も参加させて頂いていました。年齢を感じさせず人様に愛され親しまれ親切を受けて参りました。
生前、本山始め各地の諸先生方や洞川地区の皆々様の御厚意、御親切、御世話を受けましたお心遣いに対しまして、心より御礼申し上げますとともに感謝申し上げます。
今後も亡母同様の御交誼の程よろしくお願いいたします。 合掌
総本山御教所・北陸別格本山副貫主
斉藤光玉師をしのんで
総務部石川稔 第97号(西暦1998年)
去る、九月二十二日、本山御教所・大先達・北陸別格本山副貫主様でありました斉藤光玉師が御入寂(ごにゅうじゃく)なされました。
この日は、本山において奇遇にも仏陀の十大尊師を奉迎する前日のときでもあり、各地より御奉迎の準備のため多数の御信者同志の方が御帰山下さっておりました。また、台風も九州四国方面を経て関西に直進すると言われていました。
光玉師は、それまで御健全にて、御奉仕下さる皆様と御一緒に祭事の準備、また台風に備えて道中の防災安全設備にお気を配られ活動下さっておりました。
夕方になり風雨がますます激しく台風の直撃だと感じられるようになったため、光玉師はみんなに作業の中止を申され、順次お風呂に入られる様に伝えました。しかし、日も高く明るいため、それぞれに話に華が咲き、誰もお風呂に入ろうとなさいませんので、光玉師は「このような時は早く入るにかぎる」と言って、みんなの笑いを以って一番風呂を召されました。普段ならば、みんなを先に入れ自分は何時も風呂たき番をして最後にお風呂を召される方でした。
光玉師がお風呂から出られ食膳に向かわれますと、一同待ちかねていた様に師の周りに集まり師の話の出るのを楽しんでいる様でした。いつもの様に大らかな師のお話にとけこみ、座敷一面が笑いの声につつまれ、その中に、師に対して色々の質問も出ました。明日の御奉迎の順序を聞いたり、仏陀様のことを聞いたり、光玉師はいかなる質問にも微笑みをもってお答え下され、また「そんな難しいことは、わしはわからんでなぁ」と言いながら好物のお茶粥を何杯も召しあがられました。お傍で奥様がおたしなめになると、「いいがな、いいがな」と笑いながら、奥様のお膳の物までとられて召し上がられました。そして、手に持った飯碗の中身を食べ終えられると、飯碗を膳にもどし 手を合わせ奥様にもたれる様にしてお目を閉じられました。それが、光玉師の生命ある最後のお姿でした。師の御霊(みたま)が昇天後も師のお顔には安らかな微笑が残されていました。
師は別格本山、開山当時より一途に別格本山の発展に貢献なされ、常に各信者・各同志の苦しみを和らげ、山の厳しいお仕事にも進んでご奉仕下さいました。師の常なる御教えの中に「不言実行」そして、「世界平和、国家安泰」と修験行者の心の誓いをそのままに人々の喜びと救済に御専念下されました。
御神仏の御心を感受して大先達となられ大衆から慕われていた真の行者の大往生だったと存じます。
仏陀奉迎の当日は、師の心の如く台風の最中(さなか)でありながら、風一つ吹かず、雨粒一つ降らず無事に奉迎させて頂きました。係の一同の方は、師があの世でこの台風を止めて下さったのかもと、師をしのんで合掌いたしておりました。このようなお方こそ、斯(か)く宗教界に言う真の尊師と申されるお方と存じます。
尊師は現在、「台峰光玉禅定門」として仏界に御入寂なされました。尊師の御霊に追悼の意を捧げ、御信者、御同志の皆様に謹んで御尊師御入寂の御報告を申し上げます。 合 掌
故 池川悟氏を偲んで
樋川宰教 第101号(西暦1999年)
誠に残念です。何とも言えない悲しい御報告を申し上げなければなりません。本山総務副部長中先達池川悟氏が五月十四日ご逝去なされました。
師は、甲府祈力道場発足より一筋に神仏への道に身命を捧げてこられた方でした。その熱心な活動は、誰の目をもってしても異論の出るところではありません。やすらぎの宮開山の頃は、木材一本、釘一本がとても大切で、師は曲がった古釘を直しては使っておられました。前参籠所建設、御不動様御鎮座・孔雀明王堂建立と、どの時をとっても、本業(大工さん)の技を生かして、家業そっちのけで率先して従事されておられました。
特に、平成七年の孔雀明王堂建立の際には匠としてまた総務としての二役の重責を背負い、全身全霊をかけてのご奉仕ぶり、作業にかかる前に必ず御不動様にお祈りしている美しい姿に、この仕事にかける一念を感じさせられたものです。
この度の新参籠所建設にかける意気込みも並々ならのものがあり、副棟梁として亡くなられる直前まで、痛みをこらえて飛び回っておられた姿が今も目に焼き付いて離れません。
上棟式前後は憔悴しきった体に、鞭打つかの如くの御奉仕に、そばで見ていても胸のつまる思いでしたが、師の、責務を最後まで遂行しようとする、神仏にお仕えする尊厳な御姿は、これから先も我々役員全般の手本となることでしょう。
本山並びにやすらぎの宮発展に信念を貫き通し、御神名「光真」を神仏より下賜された御行跡を仰ぎ見るとともに、ここに哀悼の意を表し謹んで御逝去の御報告を申し上げます。 合 掌
斉藤善晃先生を偲んで
第141号(西暦2006年)
護 神 会
12月31日敬賞会会長、前総務総長斉藤善晃導師が逝去されました。蛇之倉七尾山一筋の信仰を全うなされ、神仏、教祖先生を奉る忠誠心は厳しく、しかし後継の若い人には厳格な中にもユーモアを忘れず育ててこられました。本山に於きましては第十二期より本山役員を勤められ、数々の大神業に携わられ、真心と尽力を積まれてこられました。1月4日葬儀の日には、多勢の行者の見守る中旅立たれました。
ここに謹んで哀悼の意を表しご報告申し上げます。 合 掌
笠井智恵(85)
昭和五十三年、本山に於ける春季大祭準備のお手伝いの話し合いがあり、私も都合をつけて行くことにしました。
四月二十八日の朝、甲府を発って、身延線の電車で一路本山へと向かいました。家のことなど忘れ喜びに溢れていました。
東も西も分からない、ホームも、電車が進んでいく方向も分からない私。入ってくる電車、驚くばかりの沢山の電車…。本山で神直先生にお会い出来ると思うと、胸ドキドキ、諸先生に会える喜び、これが私の本山への第一歩だったと思います。
富士駅について乗り換えです。駅のホームで電車を待っていた時、善晃先生が私に、「遠慮はいらないよ。もっと傍によって、迷子になったら困るから。他人が見て二人は夫婦と思うよね。でも何と言われてもいいよ、知らない人ばかりだからネ。フフフ」、 私は、「でも 愛人に見えるかもしれないよ。愛人にしたらスタイル悪くてご免なさい。アッハッハッハッー」。こんな冗談を言いつつ連れて行って下さった。思い出と感謝でいっぱいです。
厳しかった 一面、やさしさとユーモアのお有りだった善晃先生の御冥福を祈るばかりです。 合 掌
樋川恵真
故、善晃先生と初めてお会いしたのは、甲府祈力道場の前身でありました矢崎先生のお家での道場開きの時でした。
甲府祈力道場発足当時は、総務部長として斉主の矢崎先生の良きパートナーとなり種々な苦労も多かった中で、道場の礎となり、現在のやすらぎの宮興隆にご尽力下さいました。
本山総務総長になられてからは、その責任上自分には常に厳しく、また後継者を叱咤激励しながら育てられました。でも後からのフォローも忘れずに、説得上手で、ユーモアを交えながら良きお父さん的な優しい面も多々思い出されます。叱られたこと、ほめられた事等々今は懐かしい思い出となってしまいました。
病床に伏してからも信仰の道のことばかりを気にかけて「後を頼むよ、この道を継いで行ってくれ。仲良くやってくれ」この言葉が私と話せた最後の言葉となりました。
半生を信仰と共に責任と誇りをもって生き抜いた良い人生ではなかったでしょうか。善晃先生、長い間本当にご苦労様でした。遺志はしっかりと受け継いでいきます。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。 合 掌
八木哲夫先生を偲んで
下宮晃真 第141号(西暦2006年)
北陸別格での早朝、「お早うございます」と声をかける。ちょっとはにかむように笑い乍ら「お早うございます」と返ってくる。
車の中より、作業用の安全靴を出して履き替え、草刈機を出す。
「わしゃあ、斜面の草を刈るさけ」と言って、朝の一服もそこそこに危険な斜面の場所の草を刈り始める。これが八木哲夫先生の在りし日の姿である。
「八木先生、毎日ご苦労様です」と声をかけると「いいんや、わしゃあ自分が好きでやっているんやさけ」と言う。
昨年の秋季大祭の準備作業の折、早朝より道端で鉄の杭を大ハンマーを振り下ろして打ち込んでいる。「何してるんですか」と聞くと、「ここに手摺りを付けるんや。お年寄りが歩くのに危ないやろ。ここまでは大祭までにしとかなあかんのや」と言って、一人で黙々と仕上げていく。
八木先生が食事をあまりとらなかったせいか、血液中の血小板が異常に少ないのが原因とか、なぜもっと早く分らなかったのか、なぜもっと早く私が注意できなかったのか悔やまれます。彼は誰彼の区別なく人の良いやさしい一徹なお人柄でした。また、人様の悪口を一度も聞いたことがありません。
「八木先生が危篤」との報を聞いた時、彼には公私共々お世話になりながら何にもお返ししていない事に気づき、愕然とし、涙がとめどなく溢れ出し止まりませんでした。それから一時間後には、我々の願いもむなしくお亡くなりになってしまいました。
私としては、彼と一緒にやった参道工事が最後の思い出となりました。もう彼と作業奉仕は出来ませんが、その分も他の役員様共々がんばってやっていこうと思います。
現在、故人は成仏の道を歩まれ霊界でのご修業にお励みの事と思いますが、今となっては、只々ご冥福を心よりお祈り申し上げる次第でございます。 合 掌
佐藤慈水先生を偲んで(88歳)
荒木鈴華 第157号(西暦2008年)
心身ともに信仰に打ち込まれ、蛇之倉七尾山に敬神と敬愛の一念で突き進み御奉仕下されし人生を送られた佐藤先生の最期は、本当に穏やかなお顔で、平成19年11月2日明け方6時頃「胸が痛いわ」とおっしゃって救急車で病院に搬送され、一旦「心拍停止しました」と、お医者様に言われた後、お嬢様をお待ちになるが如く、また息を吹き返されて、お嬢様ともお話をされ、御子息様とも最期のお別れをなさって、夕刻静かに静かにこの世の修行を終えられました。そのお顔は穏やかで観音様の様でした。
神直先生曰く、「信仰一筋に生きた方の御生涯とはそういうものなんだよ。生きるも死ぬも何の境も区別もない、そういう生き様、死に様を持つことが出来るんですよ」「この世に未練も思い残すことも何もなく、ただ、『ああ、有難い』とその心で手を合わせて逝かれた佐藤先生の霊魂(みたま)はもう既に〝行くべき所〟におさまっておられますよ」と、そうお聞きいたしました。
御子息様のお話によりますと「母はもう覚悟ができていたのでしょうか、枕元にいつも着ていた作務衣をきちんと畳んでおいておりました。御山で着ていた白衣とお数珠もちゃんと揃えてありました。蛇之倉山一途に生きてきた母の人生は本当に幸せだったと息子の僕から見てもそう思います。母の御数珠は妹が、錫杖は僕が形見として母の意志を受け継げるように持っていようと思います」そう仰っておられました。
密葬にとの佐藤先生御自身の意思により御家族だけの御見送りとなりましたが、特にお慕いする東京の方々と我々がそこに共に立たせて頂きました。
「あの世に新たなる仕事をしに行く※佐藤先生に涙は要りませんよ。『行ってらっしゃい』と言って見送ってあげるようにと」と教祖先生のお言葉をお聞きして涙を拭うよりも明るく大きな声で「佐藤先生、ご苦労様でした。お気をつけて行ってらっしゃい」とそう呼びかけて 棺をお送り致しました。
茲に佐藤先生の御逝去を謹んで御報告申し上げ、御冥福をお祈り申し上げます。 合 掌
※神直先生は、「しに行く」とは「死に行くこと」と、常々仰っていました。
安楽光明先生を偲んで
納所 荒木鈴華 第159号(西暦2009年)
本山に来られて六年の歳月、午前三時半には御本殿の鍵を開け、掃除の準備をされた後、御自身で御供養のお祈りをされ、ときにはお滝の水を受けられて、みんなが御本殿に向かうまでの間に一通りの事を済まされていました。それは、夏の暑いときも、冬の厳しい凍てる寒さのときにも変わらない安楽先生の日課でした。
奥之院では、ご参拝される方に優しく丁寧に、親切に応対されていたようで、「今日は安楽先生から美味しいコーヒーを入れて頂きました」とか、「いろいろな御供養のお話しを聞かせて頂きました」とか、そういうお声を下りて来られる皆様の中から聞かせてもらう事ができました。
身寄りがなく天涯孤独の身に等しい安楽先生は、縁あって我々と共に本山を護るべく修行生活を続けておられましたが、その間大きい声で人を怒鳴ることもなく、どんな汚いことでも嫌な顔一つせずに素直に色んな下働きをなさっておられました。
セレモニーホールでのお通夜・お葬式を済ませた後、本山にお骨となって帰ってきた時、神直先生が供養の祈りを捧げて下さいました。この時、安楽先生の御霊は神直先生の目の前に立ったそうです。
「有難うございました」
「安楽君か、生前中話していたあの世とこの世の違いが分ったか」
「はい、分かりました」
「そうか」
「これからも先生の教えの通りにこちらで一生懸命頑張っていきたいと思います。今の僕の姿を見て下さい」そう言って、先生の目の前を「スーッ」と一羽の鳥が飛び立ったそうです。
教祖先生から「このようなことは珍しい事だ。お山にいた時は案外スローモーだったので皆から受ける注意の数も多かったように思うけれども、素直で一生懸命だった安楽先生の心を神様は受け取って下さって、そしてもはや四十九日を待たずしてあの世の活動の場所を与えて頂いたようだね」とお聞きした時、「良かった、安楽先生、本当に良かったですね」そう思いました。
一般的には、身寄りもなく、定職もなくといえばこれから先どう過ごして行くんだろうと不安と不満に落ちかねない人生ですが、一生懸命ご神仏に仕え、祈りを捧げる日々を送れば、この様に苦しみもなく、迷いもなく、魂の世界で立ち働かれるということを、安楽先生の人生の最後を通して、私達は教えてもらったように思います。
御両親が鎮まっておられる安楽家のお墓に納骨させて頂きました。お集まり頂きました同志の皆様は六十数名、四十九日の法要も同じ山梨県の富士山の見える能成寺において粛々と営まさせて頂きました。
安楽先生を慕って下さいました皆様方、かわいがって下さいました 役員先生方、謹んでご報告申し上げます。本山にお帰りの時には、安楽先生(円空光明信士之霊)のためにお茶湯を捧げ、供養のお祈りを お地蔵様の所で捧げて頂けたらと思っています。 合 掌
甲斐やすらぎの宮斉主矢崎眞意師御逝去
第171号(西暦2011年)
若き頃より総本山にて一番弟子として厳しい御修行を積まれ、修得された「施真加持法」により多くの病気の方を治し、やすらぎの宮を築かれた、斉主矢崎眞意師(享年八十一歳)が平成二十三年一月十一日その生涯を静かに終えられました。告別式には御教祖様も御列席下さり、また修験行者として、同志一同の法衣着装にて送らせて頂きました。この世で生涯を神様仏様に仕えられた眞意先生は今度はあの世にてまた世の為、人の為にとお働き下さることと思います。
弔 辞 藤原瑞明
矢崎先生の御霊前に甲斐やすらぎの宮を代表して、謹んで心からのお悔やみを申し上げます。先生にはこの信仰に志して、まず自宅を開放して道場を開き、後に大勢の役員と信者を集めて修行の場としての甲府祈力道場を構え大いに活躍されました。同時に清里千ヶ滝に自然界での行場を作るため山を開き、その後現在のやすらぎの宮建設にと息つく間もなく、時にはセメント練りや石垣島積みにと男性と同等に土方作業に精を出し、自分の信念をつらぬき通して頑張ってこられました。斉主としての責任と、行者としての人救いの道にたたれ、我が身を捨て護摩法・施真法をもって、病む人々救済に東奔西走されました。先生に命を救われた人々は数限りがないと思います。神の手そのものだったと痛感します。又、先生は女性としては珍しく決断力と実行力に優れ、自分でも迷う時にも「やろう。できるさ。絶対にやりとげる!」と強い意志で音頭をとり、立派に成し遂げました。また 本山の工事、別格の工事にも一番先に駆けつけ毎日毎日真っ黒になって働いていた姿が目に浮かびます。今大切な主を失ったやすらぎの宮ですが頭を抱え込んでいるわけにはいきません。役員一同一丸となって先生の残して下さった意志を財産としてしっかり受け継いでいきます。
先生の御冥福をお祈りいたします。 合 掌
弔 辞 樋川恵真
先生とご縁をいただいたのは、娘が病んだ時に「こんなに悪いのに医者に分からないなんて可哀想に、私が治してやるからもう心配ないよと仰って心身ともに救われたことからです。以後主人(樋川宰教先生)もお参りに行き、以来ずっと長い間お付き合いさせて頂きました。
先生とは、作業での思い出が多く、八ヶ岳から始まり、やすらぎの宮、本山奥之院広場、参道の整備等々でした。先生の「皇国の興廃この一戦にあり」との掛け声でいつもそばで一緒に助け合いながらやってきました。何事にも誠心誠意でぶつかる姿勢につい奮い立たされ頑張ったものです。土方姿も堂に行ったものでしたが、反面神事になれば白い行衣姿がよく似合い、御加持に御浄めにと数珠の袋を小脇にかかえ自分のことより人の為にと昼夜走り廻っていた姿が目に浮かびます。
こんなこともありました。やすらぎの宮で作業をして帰るときのことでした。大雨で参道はドロンコになっており、方向転換中にタイヤがめり込んでしまい車が谷の方に乗り出してしまったのです。市川さんが車を押しながらハンドルを回し、先生と私の二人も車を動かそうとしますがびくともしません。エンジンを吹かせてバックしようと試みますが、タイヤは只々空回りするだけ。タイヤの下に丸太・石・ゴザを入れて精一杯の力を振り絞ってもエンジンの焼ける臭いとタイヤから出る煙ばかりで車は少しも動いてくれません。辺りはだんだん暗くなり、泣きたい気持ちを抑えて、「ヨイショ・ヨイショ」と声を出して不安を紛らしていました。力尽き果て市川さんが「もうこれ以上は無理です。今日はこのままにしてタクシーで下りましょう」と諦めかけたとき、先生が「もう一度やってみよう!三人一緒に車に手をかけて!」「お不動さん力を貸してください!」と、叫んだその時フワッと車が宙に浮いて難なく四十五度方向を変えたんです。えっ!どうして!力も入れなかったのに、自分の力が抜けた感じで車が動いていた!キツネにつままれたようであっけにとられている二人に、先生が「お不動さんが力を貸して手伝ってくれたんだよ。あー、よかった。お不動さんありがとうございました」「本当に困ったときには、自分でするだけのことをして、それでも駄目な時には神様に一生懸命お願いすれば、ときにこんなことが起きるだよ」と教えてくれました。
又、男の人のする様な仕事でノコギリや金槌で器用に物を作るかと思えば、女性的発想も豊かでミシン仕事で、『よくもあんなに作るよね』と、驚くこともしばしばでした。
思いつくと、〝待てしばし〟がなくて、物をかみかみでもやらなくては気が済まない面があり、私が「後でいいじゃん」と言えば、「そこがあんたとわしの違うところ」と怒られましたね。今頃どこか遠いところから、「あんた!わしがいないからって言いたいこと言ってるじゃんけ」って、笑っているかもね。先生、ご冥福をお祈りします。 合 掌
送る言葉 荒木鈴華
菩薩の座に立ちしその姿
この世の 行の華かな
拙きうたですが送る言葉とさせていただきます。
斉藤妙真師御逝去
荒木鈴華 第195号(西暦2015年)
今から60年ほど前、まだ北陸別格本山が開かれるずっと以前、武生市(今の越前市)の某氏を介して神直先生と出会われたのが、信仰の道への始まりだったとお聞きしました。
体が弱いながらも地元婦人会で踊りの指導をされつつの日々を送っていた時、「あなたは、神様のところでご奉仕をして下さい」と神直先生に言われ、「お経も知らない、この私に何ができるんでしょうか」とお尋ねすると、「神様のところをきれいに掃除をして下さい」とおっしゃったそうです。「掃除…きれいにする?…」「うーん…、ほや(そうだ)草取りなら私にもできる。畑と田んぼでいつもしている草取りなら手慣れている、ヨーシ」そう思いついて、以来六十有余年、米寿の年を超えてなお、死の直前までと言っていいくらい、本山の御神域周辺全て、北陸別格本山の春と秋の大祭、夏草の茂る時々にと、草を取り続けてこられました。妙真先生が草を取られた後は、本当に美しく、心が洗われる程の清々しさを感じられました。
「おばちゃん(ご自分のこと)には、草を取ることぐらいしかできんでのー」とおっしゃって、軍手も手袋もつけずに素手で草を取り土だらけになった黒い手は、指が古釘のように折れ曲がり、しわだらけの手でしたが、神直先生は「あの手、あの指こそが宝。あの姿こそが信仰の原点なんですよ。今の若い人達にはとてもとても真似のできないこと」、そうおっしゃっておられたのを思い出します。
今時珍しい三世代同居やご家族間のなごやかさ円満さにご近所の方々も〝信仰しているとやっぱり何かが違うんやのー〟〝としちゃん、あんたが信仰しているその御山に私らも連れて行っての〟との声に「皆にそんなふうに御山のことをうらやましがられるのが一番嬉しい。何にもできん私やけど、それが私の自慢かのー」と話される笑顔が輝いておられました。大型バスを貸し切って、春・秋の大祭に、八田(福井県宮崎村八田)の皆様を、20年もの間、別格本山の神様の前に導かれるという偉業を成し遂げられました。
お葬式が終わった翌々日、
「『お陰様で、今、足もとには、美しい花が咲き、鳥も鳴き、光あふれる明るい所にいます(極楽へと登る道とのこと)。神直先生、本当に有難うございました。行って来ます』と言って、僕のところへ挨拶に来られたよ」と教祖先生からお聞きしました。
人間は決して役職や身分や地位ではないことを改めて教えられ、思い知らされました。当山役員の中にあっても、ずっと縁の下の力持ち・裏方を地道にコツコツとやり通された、その生き様自体を教えとして残された妙真先生の御霊に敬意の合掌を捧げさせて頂きます。有難うございました。
なお、先生の戒名は、重光妙真大師です。 合 掌
樋川宰教導師御逝去
荒木鈴華 第205号(西暦2016年)
朽ちるとも 何かは残せ 現世に
生命のままの姿なくとも ― 神直 -
この教祖神直先生の句そのままの御生涯を送られた宰教先生。9月27日、御修行の幕を閉じられ法界へと旅立たれました。御年91歳、そのお顔は、眠るが如く安らかで神々しい表情をなされていました。
破傷風 、脳梗塞と二度の大病を患いながらも、神仏に守られ生かされているとの強い信念のもと、奥様恵真先生と二人三脚で歩み続けられた信仰の道―。
「僕はね、娘を、子供達を助けて頂いてから御恩返しの為にもできることをさせて貰おうと、心に決めて御山に来たんだよ」そう言って笑った30年前のお顔と、遺影となったときのお顔(2年前)とはちっとも変わっておられませんでした。
宮大工の技を持ち、書道に、絵筆に、そして修験者としての後進の指導育成にと、多方面にわたっての活動ぶりは誰も真似のできない、樋川先生にしか打ち立てることのできなかった金字塔です。
具体的には、本殿護摩堂、奥宮殿、孔雀門、延命地蔵堂を建立され、加えて集会所の建設に携わりました。総本山で発行する全ての免状、認証状、手紙文、各所・各種の看板文字、加えて教祖先生の御神仏念写を清書されました。本山での時間が長くなってきた頃、護神会を立ち上げられ、会報誌『まことのこころ(まこと誌)』を発行されました。最初の頃(1年に5回発行で5年間)は全て手書きで、絵や写真も全て樋川先生の手になるものでした。その『まことのこころ』は、今もなお発行され続けております。
このようにざっと振り返っただけでも、常人にはとても真似ることのできないご活躍でしたが、樋川先生はそれだけではなく、修行生や役員の方々、ご信者の方々など多くの人々の心に、「一歩踏み出す勇気」を与えてくださいました。
どのお話も印象深く残っているのですが、ある時こんなことをおっしゃっていました。「僕の家には一時期、旅行用のボストンバッグがいつも置いてあってね、矢崎先生との御縁で神直先生に出合って、娘や皆を助けて頂いて、女房と2人で、僕はこの御山に奉仕させて頂くよ、お役に立つことがあれば使ってもらうと、そう決めていたんだ。そしたら矢崎先生が、『あるある。あんたにはその腕と心があるじゃないか』そう言ってもらって本山に居させてもらうことになってな。だから僕の家は、女房がミシン踏んで働いて、それで当主はいつも家にいないの、本山に来てて。たまに帰るけどいつまた招集がかかるか分からない、それでいつでも出かけられるようにそのボストンバッグに身支度が整えてあるんだよ。女房は僕と一緒の気持ちだから、『お父さん、いいじゃん。神様のところに行けて、頑張ってこうし』なんて言ってくれるんだけど、子供達にはそんな家庭どんな風に映ってるんだろうなぁ。父親をどう思ってるんだろうなぁ」と、御家族の話をされる時は〝普通のお父さん〟の顔になって、ちょっと嬉しそうな照れるように笑っておられたことを思い出します。
晩年、若い世代にその道を譲った後も、お会いすると必ず右手をあげて、「よっ、元気か、頑張れよ」、そう声をかけて下さった樋川先生。樋川先生はまさしく、我々の信仰の礎となる道を開いて下さった方です。
有形無形を問わず、多くのことをこの世に残して逝かれた樋川先生 は、本山の誇りであり宝です。
たくさんの
偉業を残されし宰教導師
その御霊に畏敬と感謝の合掌を
宰教先生ありがとうございました。 合 掌
総本山副管長 木下利真先生御逝去
荒木鈴華 第219号(西暦2019年)
その訃報が届いたのは、平成30年師走に入ってすぐの拝神の金が響いた時のことでした。御子息様からの連絡に、言葉もなくただ呆然と立ちつくしておりました。御本殿からは、拝神の般若心経の声が聞こえておりました。
「11月28日に亡くなり(90歳)、家族だけでお通夜も葬儀も執り行い全てとどこおりなく終えましたので、御山に連絡させてもらいました。家族葬にしたのは親父の遺言です」、そうおっしゃってそのいきさつを、お聞きしました。〝知らせて欲しかった。せめてお線香だけでも…〟主なる役員先生にお伝えしたところ、誰もが皆様口々におっしゃった言葉です。それほどに慕われておられた木下先生。
木下先生といえば、今は亡き貞照先生(神直先生御令室)と共に総本山企画部として、発展していく本山の礎として、各種工事や布教活動の段取り、計画立案や役員・有志の方への奉仕作業の呼びかけ等、率先して実行された方です。開山当初より御山を支え、神直先生直々に、修行を重ねてこられた役員先生方が、次々と今世の修行を終えられて御霊の世界へと旅立って逝かれた今、その歴史を知る数少ない支え柱のお一人でした。
お若い頃は身体が弱く、木下家の長男として30歳の声を聞くことはできないと言われ続けた御母堂様は、あちらの医者こちらの医者、果ては「どこそこの拝み屋さんがよく見る」と聞けばそこかしこと…我が息子を助けたい一心で、足を棒にして訪ね歩くも、皆一様に出てくる言葉は、「30歳までは生きられないでしょうなー」「残念ですが、今の医学ではネェ…」「好きなことをさせてあげて下さい…」と、そのような言葉ばかり聞かされたとか。
悲嘆にくれながらも、毎日毎日、御神仏に手を合わせておられると、一心が通じたか、ある町の行者様に「大峯に神直先生とおっしゃる大変な神力をもった行者様がおられる。昭和の仙人とも神とも崇められる御方が大峰におられる。その方なら、何とか力を貸して下さるかも、道を開いて下さるやもしれん。会えるかどうかはわからんが訪ねてみたら…」と教えられたそうです。
御母堂様はわらにもすがる思いで息子(木下先生)の手を引き、電車を乗り継ぎ、バスにゆられ、やっとの思いで洞川に着き、神直先生の門戸をたたき御託宣を受けたそうです。
「大丈夫ですよ、あなた(木下先生)には命冥加(いのちみょうが 神仏のおかげで命拾いをすること)がある。一心不乱に行をしなさい。そうすれば、その命長らえるでしょう…」
それが神直先生と木下先生の運命の出会いでした。会えないかもしれない高徳の先生に「大丈夫」と言って頂いた―、それは今まで誰も言ってくれなかった言葉、人生に光明を見るとはこういうことか―。
勤勉実直を絵に書いたような生真面目な木下先生は、生命をいただく修行を、忠実に確実に一歩一歩実践されました。よくその当時の行のお話を若い道場生や役員様達にもお聞かせ下さいました。物(道具)も食べるものもない時代に共に苦労した当時のお仲間達との苦労やお行の厳しさ、苦しさ、神仏の声を直接聞いた時の興奮と驚き(開山当時には頻繁に御霊媒がありました)、実体験からのほとばしるお話に、皆一様に耳を傾け、神仏の在ることを信じて修行に励むことの尊さ、大切さを教えられました。
厳しい行の話だけではなく、開発時期の土方作業や、皆の下僕となる行動や心構え(「自分を一番下にしなさい」との教祖先生の教えがあります)なども折にふれて話して下さいました。また温和なお人柄からくる皆の間に入っての「そうそう…」。どちらの味方もせず、たとえ言い争い揉め事が生じても「そうそう」と、おっしゃったので、皆…?。
「80歳を過ぎて、あの時、30歳まで生きられないと言った人は皆亡くなり、私一人だけ未だにこうして元気に生かされています。御神仏から頂いたこの命、ご奉仕させてもらって、この今の私があります」と、そうおっしゃっていた木下先生。また一つ蛇之倉七尾山の黎明期(れいめいき)を築かれた魂が逝かれたことは非常に切ない思いを禁じえませんが、副管長としても、一家の主としても、あらゆることを考えて最期の幕を閉じられた木下先生の御霊に感謝と追善の祈りを心から捧げたいと思います。 合 掌
涌田清珠先生御逝去
荒木鈴華 第223号(西暦2019年)
御年97歳で天寿を全うされました。
お若い頃から、天和会の山本千代子先生に師事お仕えなさり、毎月28日、お不動様の日には護摩を献上されて30有余年。
本山においては、御長老として若い世代の人達が気がつかない細かいところに目配り心配りをされ、常に物静かに控えめに、しかし、凛とした、そのお姿そのものに教えを頂けるような方でした。
お家にあっては、息子様、孫様、ひ孫様達と共に暮らされておられました。畑で野菜を丹精こめて作られ、それを本山に生野菜のままあるいはお漬物にして送って下さり、大祭のご参拝の皆様に召し上がってもらいたいとおっしゃって下さいました。また、お地蔵様の「前だれ」を縫っては御奉納下さったりと、本当に当山のことを一心にお考え下さった先生でした。地元のお寺様のお役を、ご夫婦で長年つとめられたこともお聞きしました。
2・3年前にふと、「私ナーお腹の中にちょっと豆粒みたいな堅い物があるナーと、お医者さんに言われましたんやけどナー、もうこの年ですよって、私の身の内にあるものは私のものですからーと、お医者さんにそう言いましてナー、一日300巻心経(般若心経)を申して(祈って)ますねん。もう二年経ちました。そしたらナー、お医者さんが、もう何ともないかもしれんよー。影は少しあるけどねー、と言わはってナー。今は一日100巻ですけど、朝・晩、御神仏様の前に座って心経申して、そして畑へ野菜の顔を見に行ったりお不動様の護摩の準備をさせてもらってます」。
言葉にしてしまうと軽くなってしまいがちですが、本当に偉大なる生き方を、私達に、信仰に生きる人達に、お手本として教えて下さいました。
たくさんのお身内の方に囲まれての、安らかになる大往生の最後だったと伺いました。そのお顔の穏やかさ、観音様のようなお顔に生き様がにじんでおられました。信仰に生きるとは、「かくありなん」との教えを頂いた涌田先生に心より感謝申し上げます。 合 掌
磯野如真先生御逝去
別格貫主 石川瑞心 第233号(西暦2021年)
令和3年5月7日、磯野如真先生がご自宅にて心筋梗塞で六十二歳の生涯を閉じられた。
思えば約五十年前、学生服の彼を本山へご案内し、本山修行生として一歩を踏み出し、数年後、修行を終えて本山から帰宅後、北陸福井の御両親と共に家業の米販売業に尽力した。以来、家業と共に北陸別格においても貴重な存在であった。
人一倍真面目で無口であったが、ビールを飲み上機嫌になると決まって本山教祖先生のもと、多くの山の仲間と共に過ごしたこと、本山、北陸、山梨での行者祭、全国各地での修行の旅、北海道一周旅行、恵那の居酒屋、九州鹿児島の旅。楽しかったこと、辛かったことの多くは七尾山抜きでは語られない。雪・寒風吹き荒(すさ)ぶ中での寒修行、熱波の中での別格本山の草刈り…。
山でのご縁を頂き結婚、円満な家庭を築きご両親を大いに喜ばせ親孝行のお手本であった。
本山教祖先生ご夫婦から真の道場生として認められ、山口基樹先生を始め多くの方に敬慕されてのご生涯であった。
ありがとうございました。 合 掌
二代管長三浦入覚師御逝去(89才)
荒木鈴華 第237号(西暦2022年)
新年の御神事準備に追われていた厳寒の早朝、その一報を耳にしました。早々に、御霊様への納経(感謝・御礼の納経)に、数名で洞川の御自宅へと向かい、枕経をあげさせて頂きました。
御子息のお話によれば
「12月20日頃に、足に雑菌が入ったとのことで南奈良医療センターへ入院、順調に回復しつつも、その間、内蔵状態に変化が起き、全て回復後の退院として様子を見ましょう…ということでした。それがわずか10日ほどで、この様なことになり驚いています」とのこと。落ち着いた、きれいなお顔で、生前中の入覚先生そのままのお姿でした。
「苦しんだ様子はなかったのですが、思えば30歳の頃から、目を病み、視力を失ってからは入退院の繰り返しの人生で、怪我や病とのつきあいは長く、そんな中で、蛇之倉山の信仰は心の支えであり、生きる指針だったと思います。本当にお世話になりました…」、そう申されていました。
今、初代管長山口力神先生の手記録を、まこと誌に掲載させて頂いておりますが、第235号に「昭和三十二年八月 三浦政彦 大目付を拝命す」と記載されております。この後、第237号に「昭和三十六年五月八日 大導師三浦政彦 法名入覚」との法位号を拝受したと記載されております。
神直先生や力神先生(初代管長)達と共に、当山を開くにあたって、当時の苦しい状況の中、ただひたすら大神を信じ、神直先生を崇敬し遂行された入覚先生に、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
毎朝、拝神の後、日光地蔵菩薩様の御前で、入覚先生の御霊様へ四十九日間祈らせて頂きました。
また一つ、蛇之倉山の歴史の礎の灯が消え去った寂しさを禁じ得ません。謹んで御報告申し上げます。 合 掌
本山重要役員 藤谷静泉師御逝去
荒木鈴華 第243号(西暦2023年)
藤谷静泉先生が令和4年11月26日、93歳の御生涯を閉じられました。
昭和40年頃から、蛇之倉山との御縁を頂かれ、厳しい修行の道に入られました。
ほったて小屋同然だった部屋で(今の集会所が建っている辺り)、何人かの女性修行生達と寝食を共にされておりました。と言っても当時は、1日2回の茶粥・梅干し・漬物という食事と、風が吹けば壁がギシギシなり、吹雪けば雪が部屋に入り込んでくるという状況で、唯ひたすらひたすら祈ることを導かれ、日中は道直しの御奉仕。開山まだ間もない頃の当山は、日々土方という奉仕作業で、参道や御神域を整えていたのです。同じ食卓で、乏しい食料を、神直先生ご夫婦も修業生と共に分け合って頂きました。自給自足にも届かぬ畑づくりで得た野菜が唯一のおかずだったと聞いています。
そのような中、ご自身の修行は、朝は日の昇らぬ内、夜は皆が寝静まった頃からの祈力行…。厳しい修行生活の中で得た、優しくとも凛とした内なる厳しさを秘めた藤谷静泉先生、その御神名の如く、静かなる泉のような方でしたが、ユーモアもあり、苦労苦しみを全て一人胸に秘め、人生を全うされた方です。
本山にあっては、書記としてその重責を完行され、御神会のあらゆることを一身に担い、神直法師様の御教えのもと、そのご生涯を全うされました。
ここに謹んで御報告申し上げ、御冥福をお祈り申し上げます。合 掌