生を奢(おご)る者は死を恐れる
矢崎幸男 第243号(西暦2023年)
現在生きている我々の胸のうちは、おそらく次のようなものではないでしょうか。
まずは、なるべく高い教育を身につけ、それを活かしてよい仕事に就きたいと思います。そして、よい伴侶を見つけ、よい家を建て、立派に子供を育てたいと思います。老後のために財産も残したいと思います。
たしかに、上のことが全て叶えば、生きやすいでしょう。しかしながら、自分一身のことだけをあくせく考え、一般社会が「よし」とすることをそのまま自分も「よし」とし、それを人生の唯一の目標として生きたとき、我々は自分の人生に満足して死ねるのでしょうか。自分一身のことだけを考え、そして生きたならば、自分が死ねば、全て無に帰するように思われるからです。
我々の本能や思考は、自身の肉体の保持保全や精神の安定を最優先にして進化してきた筈です。したがって、自分一身のことをあくせく考えることは当然のことであり、それ自体は何ら後ろ指をさされるべきものではないでしょう。しかしながら、緊急事態でなく、普通に生きていける状況のもとで、思考があくまでも自分一身のことにとどまっているならば、人間として、万物の霊長として、優れたところは微塵(みじん)もないとも言えそうです。
人は、自分の死を具体的に意識した時、それまでの考え方が一変するといいます。死んであの世に持っていけるものがないことに気が付くからです。そうであるならば、我々はよりよく生きるために、もっと死を意識すべきなのかもしれません。「今死んでも悔いは残らないのか」という視点が、ときには必要なのかもしれません。 合 掌
死を頼りに生きる
匿名希望 第243号(第60号の再掲)
私は、教祖先生の御力によって九死に一生を得、あと少しの時間を神仏より賜(たまわ)った者です。この文章は、本山に御礼参りにうかがった折、「人間は何を頼りに生きたら良いのでしょうか」と、わたしがお聞きした際に、教祖先生が御教授くださったことをもとに書かれております。「死を頼りに生きなさい」という御言葉が鮮明に記憶に残りましたので、これをそのまま題とさせて頂きました。偉そうな文章になっておりましたらお許しください。
一、死はどのような人にも必ずやってまいります。今、ご自身が死にゆくときのことを考えてみて下さい。ほとんどの方が病院のベットに横たわっていることでしょう。鼻には酸素吸入のための管がさし込まれ、テープで固定されています。腕にも点滴の管がやはりテープで固定されています。もはや体の自由がきかないため、おしりにはオムツが当てられています。あなたのお顔には、あの元気だった頃の面影はみじんもありません。何日もお風呂に入っていないため、ややもすると自分でもそれとわかる異臭が時折、鼻まで上がってきます。やせ衰え、カサカサの肌をしたご自分の手を日にかざしながらあなたは何を考えるのでしょうか。
二、私の人生とはいったい何だったんだろう。たしかにそれなりの大学を出て、それなりの会社にも入った。家も建てた。それなりの預貯金もある。でも、まてよ。死んで持っていけるものは何一つない。私は何のためにあくせく生きてきたんだろう。そうだ、子供がいる。あの子達は私が死んだ後もこの世で生きていく。あの子達は私が生きた証(あかし)だ。でも、まてよ。たしかに、それなりの教育を受けさせ、今はそれぞれがそれぞれの持ち場で頑張っている。しかし、あの子達は自分の人生に意味があったと思いながら死ねるのだろうか。もし、私のように自分が生きてきた人生の意味を一生懸命探しながら死ぬとしたら、私はあの子達を本当に育てたといえるのだろうか。
三、私がそうであったように、多くの方は死を意識して初めて、自分の人生を見直されるようです。中には、「そもそも、人生に意味なんてない」と仰る方もおられます。このような結論でも考え抜かれた末のものであれば構いませんが、そうでない場合、悔いは残らないものかと他人事(ひとごと)ながら心配になります。
死に行く者の戯言(たわごと)かもしれませんが、わたしの二の舞を演じることなきよう、少しでも日が高いうちに、御自身の死を意識されますようお願いいたします。
追記
①死から逆算して現在を生きてみますと、最も大切なことが分かり、今までの悩み事がとるに足らないものと思われてきます。
②どれだけ悩んでも、苦労しても、それは死の瞬間までのこと、だから、がんばれという励ましの意味もあると思われます。ただし、自殺は神仏から課せられた霊魂の修練を真っ向から否定することなので、自死は許されないのが原則だとのことです。
苦しい時にはゆとりがないので視野が狭まり、思考も堂々巡りになりがちです。そんな時には、自分だけで苦しさを抱え込まないで、他人に話すことも一手です。聞くだけ聞いてみようという感じで、いろんな人の意見を聞いてみたら思いがけず展望が開けたという経験が私にもございます。 合 掌
編集部
神直先生は本山におられる時は常に、奥様、ご子息、弟子、道場生、信者様等々と同一の場所で、同一の食事を、召しあがりました。その折には、どなたでも自分の疑問について伺うことができました。個人的な質問については、その旨を申し上げれば、一対一の時間をつくっていただくこともできました。
哲人はかく語りき
昔日の道場生 第243号(西暦2023年)
「生を奢(おご)る者は死を恐れる」と同趣旨のことを、マルティン・ハイデガーはその著書『存在と時間』の中で、哲学者らしく分析的にくわしく論じております。この文章では、彼が「死」を、生きていく上でどのように位置づけていたのかを、ごくごく大雑把に紹介させて頂きます。なお、『NHK 100分de名著 ハイデガー 存在と時間 戸谷洋志』はとても分かりやすかったので、お薦めいたします。
ハイデガーは、次のように言っております。『誰にも、ふとした瞬間、「どうして私はここにこうして生きているのか」、「やがて死ぬ自分にとって、生きることにどんな意味があるのか」といった問いが、不安とともに忍び寄ってくる。このとき、我々は、自分が選んだのでもなく、造ったりしたわけでもないこの世界に否応なく投げ込まれてしまっている(被投性 ひとうせい)ことに気づかされる。そして、いつか自分も死によって、この世界から強制的に退場させられることに気づかされる。自分の死は、誰にも代わってもらえない。それぞれの人生は、それぞれに始まり、それぞれに終わる。
この一連の気づきを無視し「死」を遠ざけ、考えないようにして生きようとする者もいる。反対に、自分の死を鋭く意識する者もいる。後者は、何時とは分からずとも確実にやって来る死の自覚から、自分の生をより意味あるものにするために、より自分らしく生きるために、生の意味をとらえ直し、再構成しようとする。この過程で、自分があまりにも世間の規範※に合わせて生きてきたという思いに至る。みんなに同調していれば「安心」だったからだ。それにしても、人間は一人残らず、「世人 ひと」に支配されてしまっている。』
※行動や判断の基準、お手本。
整理すると、ハイデガーは、『人は不安な心理とともに被投性に直面させられるが、明日にもやってくるかもしれない死を意識したことが契機となって、世人に合わせることをやめ、自分自身が吟味した、受動的でない、自身の人生を自分らしく生きる本来的な生き方ができるようになる』、と言っております。
〇人間を支配する「世人 ひと」とは何か
ハイデガーは、「世人 ひと」という独特な用語を創りました。この「世人」とは、わかりやすく言うと「世間」、あるいはその場の「空気」のようなものに近い意味内容を持っております。誰かにはっきりとそう言われたわけではないけれど、何となく「みんなもこうしている」「こうしたほうがいい」という、行動や判断の基準、お手本を提供するもの。それが「世人」です。
日常において、人間はこの世人に従って生きております。誰からも命令されていないのに、つい空気を読んでしまう。「みんな」と同じ行動をしようとしてしまう。それが世人による人間の支配です。注意すべきは、世人に支配されるのは、臆病な人や意志の弱い人だけではなく全ての人間である、ということです。
自らを世人に引き渡してしまった人間は、世人が考えるように考え、世人がするように行動いたします。そうした世人の影響は日常の隅々にまで行き渡っております。
たとえば、ある小説を読んで、「素晴らしい作品だ!」と感動したとしましょう。ところが、ハイデガーの考えに従うなら、それは、まっさらな自分が「素晴らしい!」と感じたのではなく、「この作品は素晴らしいと、みんなが言っている」という空気を察知し、それに同調しているだけ、ということになります。もちろん、自分としては「自分自身の感性で」素晴らしいと感じ、自分の意見を表明しているつもりかもしれません。しかし、実際には、それは世人に飲み込まれた自分が「世人の意見」を語っているに過ぎない、というわけです。
〇退廃していく人間
世人に飲み込まれた人間の振る舞いの特徴は、「世間話」「好奇心」「曖昧さ」という三つのキーワードによって分析されております。
(ア)世間話
日常において我々が誰かと話しているときのことを思い浮かべてください。世間話は、自分も共同体の一員であることを確認するための儀式のようなものですから、「みんなが考えていることを、みんなと同じように語る」ことでしかありません。世間話において重要なのは、とにかく自分が「みんな」の一員であり、「みんな」の関心があることをちゃんとキャッチアップ(追いついているの意)できていることを、みんなに知らせることだけです。したがって、世間話は常に「空気を読んだ」コミュニケーションになります。そこでは、「みんな」が分かるようなことしか話されず、「みんな」が考えないようなことは口にいたしません。例えば、みんなが気持ちよく世間話をしているところに入っていって、「本当にそうかな?」とか「それであなた自身はどう思うの?」などと言ったら、世間話は台無しになってしまうし、会話も続かなくなってしまうでしょう。このような事情から、世間話は内容の薄い、ごく表面的なものになってしまいます。
(イ)好奇心
かかる世間話の実態から、人間は、世間で何が流行しているのか、「みんな」は何に関心を持っているのかなどを追い求めることになります。自分にとって本当に大切なことは何なのかと掘り下げたり、一つのことに腰を据えて向かい合うことなく、世間の論調にあわせて次から次へと関心を変えていきます。このように、世間にあわせてコロコロと関心を変え、言っていることや考えていることも軽薄に移り変わっていく様(さま)をハイデガーは「好奇心」と呼び、「世人」の特徴だとしております。好奇心という言葉が使われておりますが、ここでは「新しい物好き」というようなマイナスイメージをもった言葉として用いられております。
(ウ)曖昧さ
このような世間話ばかりをし、周りにあわせて興味や関心を変えているために、自分自身のしっかりとした考えや立場が確立しておりません。したがって、自分の意見としてはっきりと表明されることもなく、どこまでが本人の考えていることなのかが、見分けられなくなっております。「私は○○だと思います」と言えないで、「世間では○○だと言われているみたいですけど、どうでしょうね」といった、ふにゃふにゃした言い方しかできません。このような曖昧さが許されているので、世間の論調が大きく変わった場合でも、「へぇ、そうだったんだぁ」というだけで、するりと身をかわし、世間と同じ立場に属し続けることができてしまいます。
結局、多くの方は「いかに生きるべきか」という問いに答えを出すことなく、いつしか死出の旅におもむかなければならない時を迎えてしまいます。
諸兄諸姉が、このホームページを契機として、日が高いうちにこの問いに御自分なりの結論を出されることを願ってやみません。 合掌