魂の起源

 宇宙創造の神仏であり全宇宙を統べる最高
神仏(じん)は、国により、また宗教によってその御名前は異なりますが、聖瀧大神仏様(せいりゅうおおがみさま)と申される御方です。この方が、御自身の一部を細分化して創られたものが魂(霊・霊魂)です。したがって、あらゆる魂が、宇宙最高神仏である聖瀧大神仏様の崇高なる意識の一部を受け継いでいることになります。

 全ての魂は、現在も聖瀧大神仏様の一部です。我々人間や動植物の魂が、宇宙最高神仏の一部だと言うと、何か奇異な感じをもつかも知れませんが、それはこういうことです。人間の体で考えてみましょう。足の裏の細胞は、それなりの意識を持っていろんな働きをしております。そういった些細な意識の細胞が寄り集まって、人間と云う、より高度な意識体を構成しております。それと同一です。我々は、宇宙最高神仏の一部と言っても、磨かざれば、いつまでも足裏の細胞にすぎません。
合 掌



哲学者である西田幾多郎博士の考え方は、このサイトの考え方と同一の部分が多くございます。そこで、この機会に、わたしが同一だと考えている部分をいくつか紹介させて下さい。なお、以下での「宗教」という言葉の多くは、「信仰」と置き換えた方がよいと、個人的には考えております。  矢崎


『善の研究』(講談社学術文庫)から抜粋


宗教的要求

 宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれによりて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。 中略真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。379頁

 現世利益のために神に祈るごときはいふに及ばず、いたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば嘆異鈔(たんにしょう)にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。またキリスト教においてもかのひとえに神助を頼み、神罰を恐れるというごときは真のキリスト教ではない。これらはすべて利己心の変形にすぎないのである。これにくわえて、余は現時多くの人のいふごとき宗教は自己の安心のためであるといふことすら誤っているのではないかと思ふ。われわれは自己の安心のために宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々のやまんと欲してやむあたはざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的そのものであって、決して他の手段とすべきものではないのである。380頁

 世には往々なにゆえに宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくのごとき問いはなにゆえに生きる必要があるかといふと同一である。宗教は己の生命をはなれて、存するのではない、その要求は生命そのものの要求である。かかる問いを発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。385頁



宗教の本質

 宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であらうと思う、しかして人とは我々の個人的意識をさすのである。この両者の関係の考え方によって種々の宗教が定まってくるのである。しからばいかなる関係が真の宗教的関係であらうか。もし神と我とはその根底において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力といふごときものとするならば、我々はこれに向って毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。あるいはこれを恐れてその命に従ふこともあらう、あるいはこれに媚びて福利を求めることもあらう。しかし、そは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異にせるものの相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。  中略  すべての宗教の(もと)には神人同性の関係がなければならぬ、すなわち父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我等の根本でなければならぬ、我等が神に帰するのはその(もと)に帰するのである。また、神は万物の目的であってすなわちまた人間の目的でなければならぬ、人は各々神において(おの)が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得るゆえんである。基督(きりすと)が「その生命を得る者はこれを失い我がために生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇なるものである。真の宗教における神人の関係は必ずかくの如きものでなければならぬ。我々が神に祈り又は感謝するというも、自己の存在のためにするのではない、己が本分の家郷(かきょう)たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また、神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない、これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔の念も()てくるのである。 中略  389頁390頁

 
神人その性を同じうし、人は神に於て其本に帰すといふのは凡ての宗教の根本的思想であって、この思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思ふ。  391頁


 我々のきのふ、けふと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じ様に、
我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根底を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。  394頁

 
かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。  396頁




 宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念により統一せられ、すべてがこの統一的観念の表現とみなされる如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である。否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。407頁