物質宇宙の起源
昔日の道場生 第86(西暦1997)

天地創造に関して、次のような神仏からの御霊示が古聖(老子)※によって伝えられております。
※修験道は道教と一線を画しておりますが、老荘思想とは親和性がございます。

  無名は天地のはじめなり

  有名は万物の母なり

  常に無を以て

  其の妙を観んと欲す


無名は天地の初めなり

 天地とは物質宇宙のことで。創造の神仏が物質宇宙を創造されようとしたとき、物質宇宙に関する言葉(名前)は、まだ無かったと云う意味です。


有名は万物の母なり

「有名」が「万物の母」であるということから、まず「名前」が存在し、その後「万物」が生まれたことが分かります。これは何を意味しているでしょうか。万物誕生以前に、神仏は万物を予定され、それに名前をお付けになられていたということです。そうだとすれば、万物は、決して偶然出現したものではなく、神仏の御計画のもとに創造された、ということになります。

 では、名前が有ると云うことが、万物の「母」であるとはどういうことでしょうか。文字通り、「名前」が、万物を産んだという意味だと思われます。たとえて言うならば、創造の神仏は、物質宇宙の精緻な設計図を引くために、まず物質宇宙に関する「名」(言葉)をお創りになられました。物質宇宙に関する言葉なくしては、物質宇宙のことを考えられないからです。そして、設計図が完成した段階で、御自身の精神的なエネルギーを、これまた言葉(名)を用いて集中され、言葉(名)に応じた物質をお創りになられたのでしょう。物質宇宙を創造されたのが神仏であること、また物質宇宙が出現する前には物質があるはずもないことからして、このように考えてよいでしょう。

 以上からすると、物質宇宙に関する言葉(名)があって初めて物質宇宙が創造されたことになります。このことを「有名は万物の母なり」と御霊示は伝えているものと思われます。なお、新約聖書のヨハネによる福音書冒頭に、「初めに言葉ありき」と云う一節がございます。かかる一節も、神仏が言葉を用いられて、物質宇宙を創造されたと云うことの証と言えましょう。


常に無を以て 其の妙を観んと欲す

 物はかようにして、創造の神仏の精神エネルギーから創り出されたものであり、大神仏(おおがみ)の御心を直接反映しているから、自然界にある物を観るときは、自分を無くして、その物本来の(すがた)を観るように心がけなさいという意味だと思われます

 とかく、我々が物を見るとき、無であることはまれです。例えば、我々が雨を見るとき、道がぬかるむからイヤだなとか、これで少し涼しくなるからうれしいなとか云うように、自分との関係で見てしまいます。そういう視点にとらわれずに(無を以て)、ただ単に雨の有り様を観るとき初めて、一滴のしずくでも、そのしずくがどれほど精緻な創造物なのか(其の妙)を知らされます。そして、我々がどれほど深い神仏の慈悲慈愛に満ち満ちた世界に生かされているのかを知らされます。



水の心
 

 無を以て物を見るとき、物は我々にどのような凄さを見せつけるでしょうか。我々に最も身近な物の一つである水について考えてみましょう。
 もしも、水に多くの物質を溶かし込む性質がなかったとしたら、どうでしょう。水が養分を運ぶことがなくなり、植物は成長できません。我々の体内を流れる血液もないことになります。そもそも、あらゆる生命を生み出してきた海は、なんの生命をも生み出さない死の液体となってしまいます。
 水がもし蒸発しなかったとしたらどうでしょう。雲になり風に運ばれて地球上のいたる所に雨を降らすことがなくなります。その結果、生命は、海とその周辺でしか生き延びることが出来ません。その海も、新鮮な水が補給されなくなる訳ですから、何億年かすれば、細菌類のほかは生存できなくなってしまうことでしょう。
 水がもし池の底から凍るとしたらどうでしょうか。氷河期を生き延びた生物は、今よりずっと少なかったはずです。水が温まりにくく冷めにくいと云う性質を持っていなかったら、水が透明でなかったとしら、水が今ほど豊富になかったとしたらどうでしょう。どれ一つ欠けても、生命は繁栄しておりません。
 仮に水分子一つ一つに心がないとしても、水分子一つ一つには、確実に神仏の心が込められております。水の心とは神仏の心そのものです。
 神仏の厚き配慮は、水だけに向けられたものではありません。「もしも、空気が今のようなものでなかったら」「もしも、
太陽の光がなかったら」と考えれば、それはすぐに分かることです。一秒として、一ミリとして、神仏の配慮なくしては、我々を生かしている地球環境は存在いたしません。

 このような神仏の慈悲慈愛に満ちた世界に生かされ、他のどの生物よりも自由を与えられているのが、我々人間です。自由を与えられていることの裏には、当然それに応じた責任も有るはずです。神仏から向けられた期待も有ると思われます。 合 掌