神仏の姿を求めるな

 神直先生からの御教示の一つに「神仏の姿を求めるな」がございます。先生はどうしてこのようなことを言われたのでしょうか。次に、『天に呼ぶ声』に掲載された記事の一部を抜き出してみます。(▶ ◀と(ア)(イ)とアンダーラインはこの記事で追加 ) 
     



▶(ア)神仏の御声聞に、はやる心をおさえ、一歩一歩用心して進む。横這いの格好で、五・六歩進んだ頃だろうか。不意に我が身が軽くなった。今までの、耳をつんざくような雨の音、水の音、周囲のざわめきが、一度に消えた。ちょうど、騒音きびしいトンネルを抜け出たときのようである。なにかにつままれたようだ。あたりをキョロキョロ見回す。アッ、一瞬、息がつまった。目前に、天瀧を背にして、神仏のお姿が。神仏と天瀧を照らし出している無数の色の光り。どこに落ちるともなくしぶきをあげて、堂々と流れ落ちる天瀧。壮観というか、荘厳といおうか。言葉につきせぬ絢爛(けんらん)さの中に神仏は立たれて、我に御声聞をくだされている。美しいお姿。凛々(りり)しい御尊顔。我の幻覚だろうか。あまりになにもかも整然と美しくととのい過ぎている。今見るこの荘厳な光景にふと疑問がうかぶ。◀

▶(イ)神仏の大慈大悲の御心は、疑う我れの心を、兎()の毛で突いたほども気にせず、人の世の大事を説き、種々(くさぐさ)の顛末を伝導くだされて、神仏は、堂々と流れ落ちる天瀧とともに、まぼろしの如く消えて往かれた。疑い深く、悟りつきぬ無能な我も、万感の感激に時の過ぎるを知らず、雨しぶきと濁流の中に合掌していた。◀


 この記事は、先生が還暦の折になされた大神仏への御請願に関するものです。一宗を起こされた教祖が、しかも、還暦という円熟期においてなお、鬼神、悪邪、物の怪()のたぐいの雑多な霊魂を警戒していたということに注目して下さい。

 本当の神仏が出現なされたのに、にわかに正真正銘の神仏だと信じられないのは、①それまでに何回も雑多な霊魂の接近があったということ、②神仏と雑多な霊魂との区別はすぐにはつかないということを意味しております。この事実は、神仏修行の道に励んでおられる方々はしっかりと心得ておくべきことだと思われます。

 このような話は、歴史的にもたくさん伝わっております。釈尊が苦行生活をしているとき、悪魔(マーラ)がさまざまな方法で邪魔をしたと、経典や仏伝文学に描かれています。また、キリストが悪魔の誘惑に三度遭った話を、ルカ福音書が伝えています。

 我々のような凡人がそのような経験をしたら、まず心を動かさないことが肝要です。そして、相手の言っていることが真実であるか否かを健全なる常識をもって繰り返し考えることです。その多くは、雑多な霊の誘惑であるとのことですが、薬の作用(オウムは覚醒剤、LSDなども密造しておりました)や、極度の肉体的疲労が重なったり強い心的葛藤状態が続いたときにも幻覚を見たり聞いたりすることがあるとのことです。

 オウム真理教関連の本には、そのような神秘体験をしたがために常識というタガ※がはずれ、麻原のとなえる教義を丸呑みしてしまった結果、最終的には死刑となった者達の悲しい話がいくつも載っております。当初、彼らは実に真面目で、純粋な若者達でした。決して狂った人間達ではありませんでした。

 かかる誘惑から逃れるためには、自分自身を真摯に顧みられることをお勧めいたします。そもそも、「自分は古聖や教祖先生が為されたような、生死をかけた修行を長年実践してきたのか」、「自分は己を捨て万物万精の為に生きようとの覚悟が出来ているのか」、「自分は神仏が個別に教示するに値するほどの人間なのか」、「自分は他人より偉いんじゃというような高慢な心をもっていないか」等々を謙虚に見つめ直されたらいかがでしょう。
 このように申し上げても、尚、勘違いされる方が多いようですが、ゆめゆめ油断なされませんように…。教祖になるというのは、最もしんどい立場に自分をおくということです、世の教祖にはこのことを肝に銘じてほしいと思います。 

 ※タガ() 桶(おけ)の周りにはめる、竹や金属で作った輪。      


 参考文献 『「カルト」はすぐ隣に 江川紹子