本来の信仰

 人は信仰と聞くと、神仏に手を合わせることだと考えがちです。しかしながら、神仏は大慈大悲の御心をもって、人間どころか神仏を決して意識することのない動植物までをその御心のうちに育んでおられます。そのような神仏がどうして自分に手を合わせて欲しいなどというちっぽけな心をお持ちでしょうか。

 神仏にとっては、すべての者がかわいい我が子です。そうだとすれば、その子供たちが互いに支え合う姿をこそ神仏は最もお望みの筈です。このことからすると、他の者を泣かすことが無い人間、隣に苦しんでいる者がいればその者に手を差し伸べる人間、つまり「自分の身の周りの者」を幸せにする方をこそ、神仏はお認めになる筈です。難しい宗教上の知識や理屈を知っているか否かなどは、何の意味もないことでしょう。

 ここで、注意して頂きたいのは、神仏の目からすれば、「自分の身の周りの者」には、生きている人間だけではなく、すでに亡くなられた御先祖方の魂、万やむなく堕胎してしまった水子の魂、我々の犠牲となった食べ物達の魂なども入るということです。いくら神仏に手を合わせようと、これら身の周りの者達を粗末に扱っていては、とうてい信仰とは申せません。 合 掌


以下に、神直先生の本来の信仰に関する過去の法話を載せておきます。


神直先生の御
法話 真の信仰 第68(1993)

 
信仰とは、「神仏(かみ)に手を合わせ、神仏から御利益を頂くことだ」と考えている方が多いように思うのです。ところが、私の申し上げる「信仰」と言いますのは、「信仰とは、目に見えない神・仏を対象として、自分の心を磨くことでございます」。

 世の中には欲な方がおられ、またぼけた方がおられ、神仏様に手を合わせると、ご利益がもらえるように思うんですね。また、それを見て、元気はつらつな方は、「神も仏もないのに、信仰みたいなものをなぜするんだ」と言って、いかともに、信仰がぼけた人達がするものと腐す人がおります。ところがそうではなくて、信仰とは、常に自分を鍛えること、心を磨くことです。そして、この世の中に生まれ出して頂いた自分を、社会に奉仕・貢献できるようにつくりあげるのが信仰でございます。

 神仏からの御利益うんぬんよりも、まず自分のひねくれた心、曲がった心、善という言葉の中にふんぞりかえっている心、これなんかも、まず平等の心の中に仕立てて、人間として、美しく生きられるよう信仰してもらいたいと思います。

神直先生の御法話 真の信仰 78(1995)

 お疲れのところ申し訳ございません。簡単にご挨拶させていただきます。
 今年も、役之行者神変大菩薩様ならびに大日大聖不動明王様から日本六十余州の大山(たいざん)の神仏神仏(かみがみ)を明日お迎えするにあたりまして、ご多忙のところ、かくも多くの方々にご帰山頂き厚く御礼申し上げます。 中略

 我々は、「あそこの神様ご利益ある」と聞くと、すぐその方へ走る。「あちらの仏様、ご利益くれる」と思うと、又、あちらへ走る。これは神仏様を軽視することになります。軽視とは、軽々しい気持ちで神様仏様を見るということです。神仏様というのは、石の地蔵様であろうと、金神様であろうと、ものすごい形相をした仁王様であろうと、お不動様であろうと、全てつながっております。 中略

 自分のお家の庭先に祀っている神仏様も、自分の畑の苗木のそばに祀っている神仏様も、大きな神社仏閣に祀られている神仏様も、皆つながっております。ですから、我々の心さえがっちりと落ち着いていれば、どの神仏様でも、皆我々をお守りくださいます。 中略

 私のお願いしたいのは、いつもですけども、まずお家の先祖を大切にすること。そして、その先祖が祀ってくださったお家の神仏様に一生懸命にお仕えすることです。そうすると、御守護神様は健全なる生活を送れるような働きをして下さいます。 中略

 あの山へ行ったら、神直というものがいるから、わしは今までの信仰を捨てて、神直に手を合わそうとしたら神仏様が叱ります。ただ、話は神直の話を聞きながら(参考にしながら)、日常の信仰は今まで通りの信仰(ご先祖の残された信仰)を続けて頂きたいと思います。

 お寺さんの総代をやれば、お寺さんに一生懸命に、お宮さんの総代をすれば、そのお宮さんの総代を一生懸命に、そしていつもお線香をあげているご地蔵様があるならばそのお地蔵様のために終生を捧げて頂きたいと思います。それが真の信仰でございます。そうすれば、皆様方を守って下さっている守護神も、喜んで皆様方をより以上に守って下さるものと思います。

 私は、皆様方に、真の信仰は一筋なものであるということを分かって頂きたいがためにお話をさせて頂きました。簡単ながらこれをもって本日のお話は終わらせて頂きます。どうも有難うございました。 

 

神直先生の御法話 真の信仰 第82(1996) 

 この度は東護神会の皆様方、当地にはるばると御参拝いただきまして誠にありがとうございます。私は、説教したり法話をしたり、また皆様方に神様仏様のことを説くのが仕事でございます。先程の御護摩で、皆様は心からのお祈りをして下さいました。その祈りを皆様方に少しでも多く唱えて頂きたいということ、我々人間の本当の生き方とは一体どのようなものなのかということ、そして神仏はどのような時にどのような作用をして下さるかということを聞いて頂きたいと思います。

 御神仏様の御前において、柏手を打つ、鈴を鳴らす、念珠をまさぐる、鐘をたたく、これは御神仏様をお呼びする法則なのです。この法則に従ってお呼びしますと必ず神仏様は、木像、金像、石像にのりかかって、拝む人、合掌する人の前に立たれて御霊光を当てて下さるのです。ご家庭の神棚でしたら、御神札に御降臨くださいます。御先祖様ならば位牌に御魂が宿ります。これは、霊魂の見える人でなければ伝えることが出来ません。

 皆様方は御自分の幸福のために一生懸命努力して働いてこられたと思います。それと同じように私も行者であるがゆえに、私は人生をこの行者の道に捧げてきたのです。行者の道に尽したがゆえに、神様、仏様、皆様方の御先祖様を見ることも、話すこともできますし、皆さんを恨んでいる悪鬼・悪霊をも見え、話もするのです。また皆様の往く先も見えます。ただ私は自分の経験を皆さんに申し上げるのです。


 真の信仰の仕方は祈ることです。他人に頼むことではない。他人に頼めば騙される。だけれども自分で祈れば騙されることはありません。祈るとは神に対する祈り、仏に対する祈りであり、お念仏もお題目も神仏に対する言葉であります。この言葉を唱えない限り安らかにあの世に往くことは出来ませんし成仏も出来ないのです。そしてこの世の中の思いも叶えてもらうことも出来ないのです。金銀財宝を持っていても極楽へは行けません。ならば何を持っていれば極楽へ行けるかというと、祈りより他にないのです。先祖代々からまた親から教わっている祈りが一番尊いのです。御先祖が「南無阿弥陀仏」でしたら「南無阿弥陀仏」を、「南無妙法蓮華経」でしたら「南無妙法蓮華経」を唱えることです。

 生あるものは死す、形ある物は滅す。必ずあの世の中のお世話を受けなければならない。そのお世話を受けるためにも、私の言葉を信じて実行して欲しいと思います。

 宗教の乱れは、人の心の乱れということです。人に勧められてどこそこに行って信仰するよりも、我が家の神様、仏様、御先祖様に向かってお祈りして下さい。血を吐くような真実なる祈りのある家庭には奇跡が現れます。人間は通常、一生の間に(般若心経で)35万巻を唱えなければなりません。これを唱えた人は神様仏様から認められ、病気もなければ苦しむこともありません。 

 どうか、目に見えぬもの、形のないものを馬鹿にせず、一日一日を祈りを以って過ごし、信仰を高めて頂きたいと思います。日常の神祀り仏祀りをして頂きますようお願いいたしまして、簡単ながら本日はこの辺で終わらせて頂きます。



神直先生の御法話 真の信仰 96(1998)

 今の世の中は、何を信じて何を求めて生きて良いのかわかりません。その信じられるもののない世の中において、私は皆様方に訴え、お願い申し上げたいのでございます。

 私は、一日として神仏の御前に額ずかない日はございません。私は毎日毎夜、神様仏様とお会いしております。人様に罵られた時も褒められた時も、神様仏様は私の目の前に現れてくださいます。そして、「神直よ。今こそ汝が立たなければ、この人間界は無に帰するぞ」ということを、毎日毎夜、神様仏様から説かれるからです。

 不信心(ぶしんじん)じゃ、信仰者じゃと言っても、人間は皆同じような心でございます。ご利益を貰うための信仰、人よりも金儲けをしたいための信仰であって、本当の信仰者は少ないように思われます。大概は「うちの神仏様に手を合わせれば御利益あるよ」と言われ連れられてする信仰が多いと思います。ゆえに騙されている人も多いと思います。大概の人様の信仰は、私の目から見れば、御利益半分また欲半分の信仰です。だから騙された時は悲しくて止めたいと思います。事実、やめている方が沢山おられます。皆様の中には、「神様なんて仏様なんているものか」と、誰にも言わないが心の中で思っている人は沢山いるでしょう。私はそれが人様の真実だと思います。

 今、日本の国には欲求にたけた宗教が沢山あります。人間の欲につけ込んだ一つの企業でございます。その企業に操られた人達は、神の罰が恐ろしい、仏の因縁が恐ろしいと云われ、ずるずると宗教に取り込まれているのではなかろうかと思います。

 むさくるしい(ごちゃごちゃしていて、きたない)世の中で、信仰なんて止めたい、神様構うな・仏ほっとけで暮らしたいと思う方が全てと思います。けれども、それは人間の欲求に虜にされている方の心の中でございます。私がお願いしたいのは、神様も仏様もいますから絶対に信仰をやめてはいけないということです。人に踏まれても罵られても騙されても一生懸命に先祖の教えて下さった祈り、昔の方が伝えて下さった信仰、これに向かって進んでください。お家の先祖とお家に祀っている神様と、今まで崇拝した神様・仏様、神社・仏閣から離れてはいけません。誰を信じなくてもいいです。自分を信じて進んでください。人間には生きる限り、良い事も悪い事もあると思います。けれども悪い良いという事に心を分けずに、一筋に、悪い事でも神様許して下さい、仏様許して下さい。嬉しい時には、神様有難うございます、仏様有難うございますと云うように、そのような気持ちを持って信仰を一生続けて欲しいと思います。

 私も他人様(ひとさま)から馬鹿だ気違いだと言われております。ただ神様仏様だけです。私の心を知って下さるのは。私も皆様と同じように、神様・仏様に会わなかったら皆様よりも先に信仰を止めていたでしょう。私の目には、毎日神様仏様が現れてくださるのでございます。そのため私の心、私の全てに神仏のエネルギーと神仏の御教えが満ちているのでございます。ゆえに私は信仰を止めることが出来ないのでございます。しかし、私は一度も「私の信者になりなさい」と言って説いたことはございません。信仰は自由でございます。自由で集まって下さった皆様方がどの宗教に所属していようと私には関係ありません。ただどの宗教に所属していても、その宗教の教祖に騙されても、皆様の心の中に真があれば、そして行いの中に真があれば、必ず神様仏様はじっと見つめて下さっております。だから宗教云々で、信仰そのものを失い捨ててはいけません。今苦しいからと言って、苦しさを聞いてくれないから神も仏もあるかと言って、神仏そのものを捨ててはいけません。

 南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経で宜しいです。うちの神社はこれ嫌い、うちの神社はこのお祈りでなければ駄目と言っている人は本当の神様仏様を見ないからです。神様をただ軽々しく、「罰が当たるんだ」「ご利益くれるのだ」というような宗教者は本当の宗教者ではございません。信仰とは神を敬うこと、仏を敬うこと、そしていつも言うように親孝行をすること、そして自分の子供に人間としての躾をしてあげること。俺は偉いんだと言ってふんぞり返っている人には、真っ当な人間の道はわからない。だから神様も仏様も真の力を下さらないのでございます。今、こうして誰の為かは分からないけれど、行者尊の御魂をお迎えに行ってみようかと集まって下さった皆様には、必ず今日なりの御利益があります。それはお金では買えない命の一日です。このような一日を積み重ねて、自分の心を太陽に負けないように輝くものにして頂きたいと思います。

 私は、お寺の生まれでも、お宮の生まれでもございません。皆様と同じように一庶民の中に生まれた行者でございます。だから私には神主としての知識もお坊さんとしての知識もございません。ただ我武者羅に山に籠り現在まで進んできたのでございます。そんな私に神様仏様が姿を見せ、お言葉を掛けて下さるのでございます。有り難い事と思います。そのように皆様にもお声を掛けて下さっているのでございます。ただ皆様の心のダイヤルがちょっと合わないだけのことでございます。だからこれからも、今までの信仰を捨てることなく続けて、神様仏様とダイヤルの合うように一生懸命に頑張って頂きたいと思います。そして人間らしい一生を送れるような行いと時とを過ごして頂きたいと思います。

 今は親に対してもありがとうという子供が少ない。これは子供が悪いのではありません。やはり大人の躾と思います。親に有り難うと言えない子供に現代の大人が育てたと思います。だから皆様方には、人間としての躾、人間としての恥、これをも取り入れて修行されますように、御利益云々ではなくて人間に立ち返る為の信仰をされますようお願い申し上げます。

 お子様が大学に行かなくとも、他人様を慮れるような立派な人間として成長したとき、それをじっと見ながら神仏は、「やっと汝は、万物万精を平等に見る神の心になったか、全てに大慈大悲を施す仏の心を自分の子供に教える事ができたか、良かった良かった、私の教えなければならないことを汝が教えたのだから私のもつエネルギーを汝に授けよう」というところで、神様仏様から本当の御利益をいただくのでございます。

 ただ、お願いし進んで頂きたいのは一人一人の真の信仰でございます。南無阿弥陀仏も南無妙法蓮華経も皆同じです。みな神様仏様が大慈大悲をもって私達人間を万物の霊長として育てるために与えて下さった教えです。どの経文でもよい、経文を紐解き経文を読んでみようかなと思う皆様のその心こそ真に尊いのでございます。皆様一人一人の真を燃え立たせて頂きたいと思います。それが現代の世救いでもあり、そしてそれが人間としての心を失いかけた人へ、皆様のその心が鏡となって初めて人間界の大きな危機を救う事が出来るのでございます。



神直先生の御法話 真の信仰 121(2002)

 ただ宗教に入っている事だけを口に出しても、お家のご先祖にお線香も立てず、お念仏もお題目も唱えないような信仰は本当の信仰とは言えません。親孝行と書いて「親孝
(しんこう)」、真を行うと書いて「真行(しんこう)」、進んで行うと書いても「進行(しんこう)」と読むことができます。しんこうの幅は広うございます。我々行者の信仰は孤独です。ひたすら自然に向かい自らの心身錬磨と天地の中に存在する神仏に向かって、万物万精の平和安泰を願います。

「朽ちるとも何かは残せ現世に 命のままの姿なくとも」、これは私が自らよんだ心のうたでございます。

 人そしてこの世の生あるものはいつかこの世から消滅します。しかし、自らの生き方において朽ちることのない行いがあるはずです。それを探し、行ってみるという日常の活動の根本として読ませていただきました。私が皆様にお願いしたいことは、後世すなわち子々孫々に残る本当の信仰をして頂きたいということです。神様仏様を、ご先祖様を敬うことを教え、皆様が亡くなった後も皆様に合掌しお線香の一本でも立ててくれるお子様お孫様を残して頂きたいと思います。人としての道を、信仰という立場の中に一つ残して頂きたいと思います。