教祖先生を偲んで
矢崎幸男
236(西暦2022)

 

 早いものです。神直先生が亡くなられてからもう二年が経ってしまいました。そこで、先生を偲んで、私の目から観た先生がどのような方であったかを少し記しておきたいと思います。

 私はと申しますと、もうすぐ古希を迎えようとしている爺です。そんな私にも若い時がございました。それは、今から約半世紀も前の西暦一九七二年、私が大学一年生の夏休みのことでした。洞川の夏は故郷である甲府の猛暑に比べたら、別天地でした。母が蛇之倉七尾山の信者であった関係で、夏休みの約二か月間を、避暑をかねて修行の真似事をさせて頂くことが出来ました。
 その頃は、教祖先生も四十代前半とお若く、相談ごとを抱えたお客様の来訪がない時には、道場生を引き連れて、参道の拡幅工事などの土方作業に従事されておられました。先生の服装はと申しますと、長靴をはき(晴れていても)、下半身はデニム地でない通常のズボン、上半身は丸首の半そでの肌着(夏でしたので)の上に薄茶色の腹巻、首には汗拭き用の日本手ぬぐいを巻き、手塚治虫と同じ形の黒い帽子をかぶっておられました。髭はまだ蓄えておられませんでした。
 およそ教祖らしからぬ出で立ちでございましたので、一般の奥之院登拝の方々には、まさか目の前でスコップを握って土方をしているおじさんが教祖であるとは、思いも寄らなかったでしょう。作業は、スコップやつるはしなどの道具を使って行う肉体的なものでしたから、要領の悪い私にもなんとか邪魔にならずにお手伝いすることが出来たように思われます。

 休憩時間に、先生から色んなお話をしていただきました。お話を伺っているうちに、大学での勉学を続けるより、信仰の道に身を投じた方がより有意義な人生を送れるだろうと考えるようになりました。両親は突然のことで面食らったようですが、なんとか退学することを承諾してもらい、夏休みが終わっても帰京せず、そのまま蛇之倉山の道場生としての日々を過ごさせて頂きました。今思えば、両親が先生をよく存じ上げていたからこそ実現したことです。結局、道場生としての期間は丸三年でした。

 青春真っただ中の三年が過ぎ去って、一般社会に戻った後も、神直先生を始めとする諸先輩方から様々な御指導をいただくことが出来ました。おそらく、私は、最も出来が悪かったことが幸いして、最も教祖先生からお話を伺えた者の一人であったろうと考えております。


教 祖

 口幅ったいようですが、一言で申し上げるならば、神直先生は「教祖らしい教祖」でございました。神直先生からは、信仰に関する知識の地平を切り開いて頂いたことはもとより、口先でない、実践の新しい地平を切り開いて見せて頂いたように思われます。
 もちろん、本当の神仏の心や、本来の信仰のあり方など、実に沢山のことを教えていただきました。しかし、先生の凄さは別の所にありました。「何事にも心をこめろ」「自分が行ったらみんなが喜んでくれるような、そんな自分をつくれ」「自分をエサにしろ、自分をエサにできないようでは人はついてこない」等々と、口で言うのは簡単です。しかし、なかなか実践出来るものではございません。どういうことなのか、道場生時代に経験した、北陸別格本山の参道直しの初日を切り取って、ご案内させて頂きましょう。

 朝、七時ごろに起きて朝食をいただき、八時半ごろからツルハシやスコップなどを担いで参道に向かいました。参道はコンクリートが打ってあるのではなく、ところどころに土留めをつくって道の土砂が流されるのを防ぐという工法でした。参道の二合目あたりに竹林があり、そこから竹を切り出して土留めの用材にいたしました。本山を離れ、いつもとは景色の異なる場所で行う作業は楽しいものでした。

 土方作業を五時ごろに終え、七時ごろに夕食をいただいたと記憶しております。我々道場生は、作業終了後から夕食までの間にのんびりとお風呂をいただき、一日の疲れを癒すことが出来ました。先生はと申しますと、土方作業から解放された後にも、相談事をかかえた方々が先生との面談を希望されて待機しておられましたので、お風呂に入ることもせず、その方々の対応に追われておられました( 教祖より先にお風呂に入る道場生ということで、内心申し訳なく思っておりました)。夕食時にも、ひっきりなしにお客様が来訪されました。先生のお顔を拝しに来られただけの方も多かったように思われます。会われた方全てに笑顔で応対され、初めて来られた方にも、すぐに団らんの和の中に入れるよう、「箸はありますか」「この○○○(料理名)を頂いて下さい」等々と、実にこまごまと気を配っておられました。にぎやかな夕食の後にも、お客さんが来られました。そんなこんなで、結局、先生がお風呂に入られたのは、十時過ぎだったと思われます。別格の先生方もそのことは承知されていて、先生に早く休んで頂きたいと時刻を気にされていたようですが、相手は悩みごとを抱えた方々なので、なかなかお断りできなかったようです。結果、教祖より道場生が先にお風呂をいただくという前代未聞の大事件が、工事期間中続きました。

 本山におられる時でも、大祭時などはほとんど寝ておられなかったように思われます。相談事を抱えたお客様が全国から集まるわけですから、それはもう大変です。毎日、睡眠不足のはれぼったい目をされておりました。大祭の後や、護摩や施真の研修が終わった後に、精進揚げをして下さることがございました。そんな時には、気の合う者どうしの組み合わせ、初対面でも話が合いそうな者どうしの組み合わせなどを考えて、どの自動車に誰が乗るという車割りや、旅館の部屋割りなどのために頭を悩ませておられました。初めて使う旅館の場合には、先生が実際に泊まって下調べをされたとのことです。精進揚げの宿泊施設からそのまま地方に帰られる方々のためには、誰それはどこの駅で何時に本体と別れる、誰それは云々、というようなことまでやっておられました。

 本山の平時においても、実にこまごまと心配りをされておられました。そして、それは晩年まで変わりませんでした。気候の良い季節は勿論、厳寒期の朝の清掃とそれに続く拝神にも体がきかなくなるまで率先して参加されておられました。「もうお歳なのですから、お止めになられたらいかがですか」と奥様を始めとする周囲の方々が進言した際には、「信仰は理屈ではない、自分の誠を磨くこと、心を通すこと」と仰りお続けになられました。何でもないことのようですが、生涯続けることは実にしんどいことだったと思われます。それを、身をもって実践して見せてくださいました。生身の肉体をもっていても、ここまで出来るのだという「実践の地平」を広げて見せてくださいました。



過酷なお立場 
237(西暦2022)

 先生が用をたされトイレから出てくると、それを見ていたある信者様が、「先生もおトイレに行かれるんですね」と、仰ったそうです。こんな内容だと笑い話にもなりますが、次のようなこともあったそうです。

 具体的な御名前は伺っておりませんが、ある方が本山に電話をかけてこられました。先生が電話に出るとその方は、「ああ、先生ですか。ありがとうございます。これで私は生きられます。実は○○○で、死のうと思っておりました。しかし、決心がつかなかったので、最後に、心の中でかけをいたしました。先生でなく他の方が出られたならば死のうと考えていたんです。先生に出て頂いたので、もう少し頑張ってみようと思います」というような内容だったそうです。

 また、悩み事に対する先生のお答えに満足できない方も中にはおられたようです。例えば、望まない経緯でできた子供の出産に関するような場合です。相手の意に沿うような返答をしてあげたいと思っても、神仏の立場からしたら、それが出来ない場合もございます。このような時には、相手から恨まれてしまうのだそうです。さすがの先生も精神的に随分ときつかったようです。
 上記のようなお話を先生から伺ったとき、なれる筈もありませんが、神仏や教祖になんかなるものではないなと、つくづく考えさせられました。我々には、到底、責任の重さや過酷さに耐えられないことが明らかです。

 ある時から先生は、「私は神仏(かみ)です」と仰るようになりました。先生には、自分を偉く見せたいという気持ちはありませんでしたから、どうして、御自分の手で自分の首を絞めるようなことを言われるのかと、長年疑問に思っておりました。「私は神仏です」と言った瞬間、自分で自分が越えなければならないバーをいっきに引き上げてしまうからです。おそらく、いつまでも自分の事ばかりに囚われて、世の為人の為になれそうもない我々を見て、先生にも「投げ出してしまいたい」「楽になりたい」と思う瞬間があったのでしょう。しかし、それは何があっても先生には出来ませんでした。そんな立場に置かれた御自身の心を奮い立たせるために、御自身の逃げ場を塞いでしまうために、「私は神仏です」と仰られたものと、今の私は考えております。

 

今も心の中に

 先生は今も私の行動原理となっております。壁にぶつかるたびに、「こんな時、先生ならなんと仰るかな」「先生なら、どうなされるかな」と考えます。先生から受けた影響の大きさに今更ながらに驚かされます。

 私の一生は、先生にお会いできたことで、実に悔いのないものとなりました。来世でも、「ソニーの社長と御山の道場生のどちらを選ぶか」と神仏から問われましたら、少し悩んだ後(なやむんかい)、「道場生」と答える予定です。先生につながる道を切り開いてくれたことを、今は亡き母に感謝いたしております。

「先生、最後となってしまいましたが、いつまでも成長しない我々を見捨てることなく指導して下さり、ありがとうございました。本当に、ほんとうにお疲れさまでございました。」 合
掌