宮沢賢治の『よだかの星』について
矢崎幸男 第256号(西暦2025年)
あらすじ
よだかは実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて耳までさけています。ほかの鳥は、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうというぐあいでした。名前はよだかという
鷹は、みにくいよだかが自分と似ている名前であることをひどく嫌がっており、ある日の夕方、とうとう、よだかの巣にやって来て、「名前を改めろ、改めないとつかみ殺してしまうぞ」とおどしました。鷹が帰った後、よだかは、どうして顔がみにくいだけでみんなに嫌われなければならないのだろう、なんにも悪いことをしていないのに、などとしばらく考えた末、暗くなった空に飛び出しました。
よだかは口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、空をよこぎりました。小さな羽虫が幾匹も幾匹も
しばらくして、また一匹のかぶと虫が、よだかの咽喉に、はいりました。そしてよだかののどをひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、よだかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてその僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前に、僕は遠くの遠くの空の向こうにいってしまおう)。
「お日さん、お日さん。私をあなたの所へ連れてって下さい。
いつしか、よだかは自分のからだが
よだかの星は、今でもカシオペア座のとなりで燃えています。(完)
宮沢賢治は十八歳のとき『法華経』を読み、それ以来、大乗仏教のとくに『法華経』の信者となりました。賢治は三十七歳という若さでこの世を去るまで、『法華経』の信仰にそった生活を送りました。彼の詩や童話には、『法華経』の考え方が色濃く出ております。
私は、『よだかの星』は、賢治の純粋な魂だからこそ生みえた稀に見る美しい童話だと思います。しかしながら、大きく二つの難点があるように思われます。一つは、自死を肯定しているように読める点です。児童に、自死は美しいものと刷り込まれてしまうことを惧れております。もう一つは、夜だかには、星になるよりも選ぶべき道があった
と思われる点です。以下に、それを記してみます。
まずは、よだかは、死を選ぶくらいなら、鷹の要求を受けいれて名前を変えてもよかったように思われます。それが嫌なら、理不尽な鷹のいない場所をこの地上で探すべきだったように思われます。それもせずに、いきなり死を選んだことには疑問符を付けざるをえません。
一番深刻なのは、よだかの「罪の意識」です。すべての生きとし生けるものの世界は殺し合いの世界、修羅の世界です。よだかは、鷹に殺されそうになって初めて、殺される者の気持ちを切実に理解いたしました。虫たちは、何にも悪いことをしていないのに、よだかに殺されます。よだかもまた鷹と同じく
よだかは、殺し合いのない理想の国に向かって飛翔を試みました。自分が生きれば生きるだけ多くの虫たちを殺してしまうという現実から逃避するために死を選んだ行為は、『法華経』の教えにそったものだったのでしょうか。一見すると、この場合の自死は慈悲の行為として許されそうなところに問題の深刻さがあります。
我々は、神仏から魂修行を命じられてこの世に出されております。そうである以上、自死は、自身の魂修行を全面的に否定する行為でありますから、真っ向から神仏の命に背くことになってしまいます。殺して食べるほか生き延びるすべがなく、しかも自ら死を選ぶことも許されないとしたら、我々は一体どうしたらよいのでしょうか。
神仏には原則としてこの世に手を出せないという掟がございます。そんな神仏になりかわって、この世で
調整する際に最も効果を発揮するもの、それは、祈りです。我々が、自分の願い事をするのではなく無私に祈るとき、祈りは万物万精に対する偉大なる育みの力となります。神直先生によれば、祈りが集まれば台風の進路さえ変えることも出来るとのことです(試したことはありませんが)。祈ることによって、先祖や水子を始めとする万物万精とつながり、神仏とつながります。また、無私の祈りに目覚めた者は、他の日常生活においても万物万精の調整者として行動するようになります。そのことは、我々の為に犠牲となった者達、すなわち言葉を使えない者達を生かすことにもなります。
賢治がこのことを知っていれば、「よだかの星」の展開は随分と変わったものになっただろうと、私は考えております。修羅のなかの修羅で終わるか、神仏に一歩でも近づくことが出来るかは、我々が無私の祈りを実践するか否かにかかっております。
※万物万精 万物とは姿形があり、そこに魂を宿しているもの。万精とは姿形のない魂そのもののこと。したがって、万物万精とは全宇宙を意味していることになります。
『殺生戒には二通りの意味がある。「無暗に生き物を殺してはならない」という意味と、食べるために生命を奪った場合には「殺してしまった者を生かさなければならない」という意味である』というのが、神直先生の御言葉でした。
このように申し上げると、殺生を後の意味にとらえることには文法的に無理があると仰る方がおられると思われます。しかしながら、自殺という言葉を見て下さい。上の「自」が目的語となって「自らを殺す」となっております。そうだといたしますと、「殺生」を「殺した者を生かす」と考えることは文法的にも無理は無いと思われます。