神仏とはどのような存在なのか
日本の神は神話がルーツとなっていることが大半です。しかしそうでない神様もおられます。例えば、菅原道真は天満宮に、平将門は神田明神に、崇徳上皇は白峯神宮に神として祀られております。昔の人は、これら三人は不幸な死に方をした結果、怨霊となってしまい権力者を呪い殺したり天変地変などを起こしていると考えたので(怨霊思想)、その怨みを鎮めてもらおうと神として祀りました。また神格化された理由は異なりますが、豊臣秀吉は豊国大明神として、徳川家康は東照大権現として祀られております。東郷平八郎、乃木希典もしかりです。何れにいたしましても、「人間が」自分たちの都合で神として祀った方々です。
地球霊主は真宇王大霊大権現様ですが、この方は、地球全ての御霊を束ねる方なので、同じ大権現でも徳川家康とは随分と異なり、一緒に論ずることは出来ません。ここで「神仏とはいかなる存在か」という場合の神仏とは、「人間が」神として祀った御霊のことではなく、宇宙を創造された神、地球霊主等の、大神仏(おおがみ)のことだと理解しておいてください。
神仏は全知全能か
そもそもどなたが神仏は全知全能などと言いだしたのでありましょうか。「神は知らないことがない」「神に出来ないことはない」などということを、人間に分る筈ありません。おそらく、自分がすがりつきたい相手である神仏には、全知全能であって欲しいという人間の願望が言わしめたものだと思われます。
神仏であるからこそ出来ないことがあります。
仮に、AさんがBさんを殺したいほど憎み、殺人計画を立てたといたしましょう。全知の神仏はそれを察知し、その実行を妨害したといたします。結果、Aさんは罪を犯すこともなく、Bさんも殺されることもなく、無事に人生を送ったといたしましょう。
万が一、神仏がこのような行為をされたなら、神仏は公平であるためには、Aさんばかりでなく、全ての人間の殺人の企てを阻止しなければならないことになります。同様に、殺人をくい止めたのならば、其れよりも軽い罪である傷害を実行しようとしていたCさんの犯罪も未然にくい止める他なくなります。なぜならば、Aさんを犯罪者にしなかったのであれば、其れより犯罪性の低いCさんを犯罪者としてしまうのはおかしいからです。同様に、放火行為も詐欺行為も、神仏により未然に食い止めなければならないことになります。つまり、この世は犯罪のない世界ということになります。
このような世界では、人間は家畜と同じです。人間は、右を向けと言われたなら、右を向く他ありません。かかる世界は、魂修行とは無縁の世界です。なぜならば、魂修行には、悪いことをしようとすればそれが可能な状況下で、自分の意思でそれを抑制するということが必要だからです。
以上から、神仏には、地球が「魂修行の場」であることから生ずる制約と、神仏は公平でなければならないことから生ずる制約があるはずです。すなわち、神仏には、神仏であるがために、「この世のことには手を出してはならないという掟」があると言えましょう。
神仏は戦争に加担されるのか
人は戦争に臨むとき、神仏に勝利のご祈願をいたしますが、神仏はその願いを聞き入れてくれるものでしょうか。私はこれに対して、とても否定的です。なぜならば、繰り返しとなりますが、神仏にとっては、全ての人間がかわいい我が子です。そうだとすれば、戦争とは人を殺し合うということですから、一方に加担して一方を負かすようなことを神仏がなされる筈がないからです。
「兄(弟)を殺したいから僕に力を貸してくれ」と、弟(兄)が兄弟の親に向かって懇願しているのと同一です。親は悲しむ他ありません。以上のことから、神仏は戦争に関しては中立であり、歴史上のいかなる戦争においても、一方に加担したことはない筈です。
そうは申しましても、日本国が侵略された場合、正当防衛的に戦うしかない場合もございます。そういったときには、命懸けで戦う兵士の精神的な支えとなるよう、「どうか生きて帰らせてください」とご祈願するのは構わないでしょう。
神仏は大慈大悲か
たしかに神仏は大慈大悲だと思います。しかしながら、前述したように神仏にも出来ないことがございます。したがって、常に神仏は救ってくださると考えるのは間違いです。神仏に守られるには、それなりの日常における行動が必要です。まずは、身の周りの魂に心を配ることが大切です。食べ物を粗末にせず、地球環境にやさしく生活し、親孝行し、自らご先祖や水子供養を実践すれば、お願いしなくとも神仏は必ず護ってくださいます。
神仏は金儲けをしない
神仏が賽銭箱をひっくり返してパチンコを打ちに行くのを見た人間は今だかっておりません。供養だとか除霊だとか言って法外な金銭を要求する者や宗教団体は詐欺師です。相手にされないのが一番です。
神仏はどちらが偉いのか
「神と仏とではどちらが偉いのか」と、お尋ねになる方がございます。「このような問いは、お父さんが偉いのか、お母さんが偉いのかを問うのと同じ。どちらが欠けても貴方は生まれてこれなかったでしょ」と、先生は答えておられました。
〇「神仏を口にする者が、神仏をあまりにもちっぽけな存在にしている。神仏を、一人の人間のような微々くさい存在としている。結果として、一般の人々が本来の神仏に接近することを妨害してしまっている」というのが、神直先生のお言葉です。「人間は勝手に神仏に対するイメージを作り上げ、勝手に幻滅している」とも仰っていました。
神仏の教えの中に、人間の考えが紛れ込んでいる
世界三大宗教である仏教、キリスト教、イスラム教について考えてみましょう。
□お釈迦様(紀元前六世紀頃)は何一つ書き残しませんでしたが、釈迦が死んで何百年もたった後にも、釈迦の名で続々と経典が世に送り出されました。その結果、現在、釈迦の名で通用している経典が無数にあり、しかもそれらは互いに矛盾さえしております。経典に、お釈迦様以外の人間の意見が紛れ込んでしまっているからです。
『釈迦は生まれた直後に、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った』、という逸話があります。後世の者が、釈迦を崇敬するあまり残した話でしょうが、かかる話を真実だとするところにも無理があります。
□キリスト教の聖書も、キリストが書いたものではありません。「聖書の筆者たちは、神に導かれて書いたから著者は神である」、とキリスト教は主張されております。しかし、人間である筆者の意見が一ミリも入っていないという保証はどこにもありません。
キリスト教の聖書とは「旧約聖書」と「新約聖書」の両方を合わせたものです。その旧約聖書には、「異教徒は殺せ 」と書かれております。私は、この記述に強烈な違和感を覚えてしまいます。
キリスト教において、エホバは唯一の神であり最高神でもあります。そうだとすれば、エホバにとっては、全ての人間がかわいい我が子のはずです。そうだとすれば、そもそも異教徒とは誰をさすのか分からないのです。エホバを崇拝しない者が異教徒だといたしましても、最高神仏であるエホバが、「自分に手を合わせて祈らない者は殺してしまえ」などと言うはずがありません。そんなちっぽけな御心を持っている筈がありません。私の浅学が原因となった誤解かもしれないので、一度、その道の権威者に伺ってみたいものだと考えております。
イスラム教のコーランは、唯一無二の神(アッラー)から預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示であり、著者は神だとイスラム教も主張されております。しかしながら、異教徒の扱いに関して、キリスト教と同様の疑問が生じてしまいます。
神直先生曰く
「神仏は、わたしに手を合わせておきながら、他の神仏にも手を合わせたと言って怒るような微々臭いお気持ちはもっておられん」「神仏は、そもそも自分に手を合わせて祈って欲しいなどというちっぽけな御心をお持ちでない」
この御教示からいたしますと、宗教を原因とする争いというのは、神仏どうしの争いである筈がなく、それぞれの宗教指導者が、自分に都合が良いように勝手に神仏の心を解釈した結果の争いだということになりましょう。神仏の顔に泥を塗る大罰当たりの行為という他ありません。
合 掌
以下工事中
〇神仏といえども、水子が捨てられた親に怨みを晴らそうとしているような場合に、これを妨げることは出来ません。神仏にとっては、水子も生きている人間と等しい愛し子です。それどころか、水子は被害者です。加害者に加担して、被害者を罰することなど出来ようはずがありません。
〇稲荷明神などの場合、ねんごろにお祀りすれば、稼業がうまくいくように働いて下さるとのことです。
〇受験などにおいて、自分が受かれば誰かが落ちるというような場合、神仏は賽銭をあげたからと言って、神仏の力をもってその者を合格させるようなことはなさいません。ただし、見届けては頂けるようです。
〇神仏にとっては、この宇宙が住処です。どれほど立派な伽藍でも、どれほど立派な像であっても、そのような物に閉じ込められたいなどと考えておられません。ただし、多くの真ある人間の真の心を以てお祀りすれば、その心に応じて鎮まっては頂けるようです。
〇ヒトラーの暗殺計画は何回も企てられ実行されました。この時、神仏がほんの少しでも手をおかし下されば何百万もの人間が救われたはずです。しかし、神仏には、この世に手を出してはならないという厳しい掟があるので、それは出来ませんでした。
〇人が殺されようとしているとき、どうして神仏は手を出されないのでしょうか。仮に、ある者がピストルを発射しようとした時、神仏が突然現れて、その行為を妨害したらどうでしょう。あるいは、空中で
しかしながら、地球第七周期律の最終段階における生物種入れ替えの時とは、処罰を実行する時でもあります。この時、神仏が手をこまねいている理由はございません。本来の修行の場としての機能を取り戻させるため、生きている人間を直接、間接に、処罰されることが考えられます。