意識の座はどこにあるのか

 現在、一般的に、意識の座は脳にあると考えられております。しかしながら、意識が脳にあるのであれば、脳が死んだときに意識も消滅することになります。それでは、死後にも存在し続けるとされる意識、すなわち先祖霊や水子霊は妄想ということになってしまいます。何より、奈落の底で喘いでいる水子の一分一秒の苦しみを考えると、彼らの存在を妄想として済ますわけにはまいりません。


私の結論

() 意識の座は霊魂にある。

() 意識と切り離すことの出来ない記憶の座も霊魂にある。

 霊魂が保持していると考えられる記憶には、次のものがある。
①前世までの記憶と今世の記憶、

②人類ネットワークより獲得する記憶、

③宇宙ネットワークより獲得する記憶、

おことわり

 わたしが、上述の結論を採る理由をこれから述べさせていただきますが、ここで扱うテーマは形而上学(けいじじょうがく)※そのものです。それゆえ、諸兄諸姉が、科学的に厳格に証明されないものは何一つ信じないという方であるなら、この文章は一瞥(いちべつ)する価値もありません。しかし、神仏やご先祖霊や水子霊のことをご自身の頭で考えてみようという方は、是非一緒に考えてみてください。

 この文章の内容は、あくまでも叩き台として、批判的にお読みください。論じている対象の性質上、誤りが入り込みやすいからです。但し、いくばくかの真実もあると思われますので、参考にはなると思います。


※形而上学

  現象を超越し、その背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟により或いは直観によって探究しようとする学問。神・世界・霊魂などがその主要問題。(広辞苑)

 

()意識の座は霊魂にある

 現在、脳研究で分かっているのは、人はどのようにしてものを見ているかとか、どうやって手足を動かすかといった部分だけです。心や意識が全て脳に還元できるのだとしたら、たとえば手足を動かす前に、手足を動かして何をどうするという意志的決断をくだす指令場所が脳にはあるはずです。ところがそういう肝心要のところが今もなお分かっておりません。あまりにも分からないため、最近では、意識は脳のメカニカルな活動にともなって付随的に発生してくる幻のようなものに過ぎないという見解すら出されております。つまり、意識などというものは実体のない幻影に過ぎないから、その座を探し求めても無駄だと主張しているのです。しかし、これでは、かつては脳の研究を進めていけば意識の謎はすべて解かれるはずだと考えていたのですが、それは幻想であったと敗北宣言をしているようなものです。
 このように、意識の座は脳にあるとする一般的な考え方といえども、決め手を欠く、一つのドグマ(独断的な説)であると言う他ありません。

 わたしが、意識は霊魂にあるとする理由は以下です。

 ①創造神の一部を細分化したものが我々の霊魂です。したがって、我々の霊魂は、創造の神の基本的な性質を継承している筈です。そうだとすれば、神仏が物質的な存在に依拠しない意識体である以上、我々の霊魂もまた、脳などの物質的存在に依拠しない存在であると考えて良いはずです。

 ②『 脳死 立花隆 中央公論社 』の299頁には次のような臨死体験の記事が載っております。


(
引用文)

 ぼくが二十六歳のときのことなんですが、夜中の十二時過ぎ、乗っていた車があいにくの雨でスリップ事故を起こしてガードレールに激突してしまったんです。そこから先のことは覚えてないんですけど、あとでお袋なんかに聞いた話では、ガードレールが車の中に飛び込んで、助手席にいたぼくを押しつぶしていた。そのために全身打撲や骨盤骨折、膀胱破裂などで体中がグチャグチャになっていたというんです。

 すぐ救急車で外科病院へ運ばれましたが、担当の若い医者は、そんなぼくを見て、「これは手当ての仕様がない。もうだめだ」そう判断したらしいんです。おかげでぼくはなんの手当てもされず、いわゆる霊安室にそのまま放置されてしまった。でも、お袋はどうしてもあきらめきれず、夜中だというのに院長を探し出してきて、「だめでもいいから、私たちが納得のいくように手当てだけはしてください」無理矢理に頼み込んで治療をさせたということでした。

 ぼく自身はなんだかまわりが妙にザワザワ騒がしいような感じがして気がついた。すると、ぼくが寝ている姿が見えた。そのまわりでみんながいろいろ手当てをしたりしてるんですね。つまり自分を自分が見てたっていうんですかね、それは実に不思議なんですけど、そこで起こっていることを肉体を離れたもう一人のぼくが見下ろしている。どうもそうとしか考えられない状態なんです」(引用文終了)


 このように、自分がベットで寝ている姿を病室の天井あたりから見下ろすという体験が、世界中いたるところで、数限りなく報告されております。
 精神医学の巨人、カール・グスタフ・ユングの臨死体験談には、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述さえございます
(『臨死体験㊤ 立花隆 文春文庫』)。かかる体験談を先入観なしに読めば、そこには、「意識は脳などの物質的存在に依拠せずに存在している」という事実が浮かび上がってまいります。世界中で報告されている研究資料を見てもなお、これらの現象の実在が信用できないとする方は、およそ人間の証言を一切認めない、あるいは信じたくない人間だと言う他ありません。

 例えて言うならば、ガンダムが人間の身体にあたり、アムロが霊魂(意志的決断をくだす指令主体)にあたります。生きている状態というのは、アムロがガンダムの操縦席(脳)に座って、ガンダムの手足に指令を出している状態です。この場合、アムロ(霊魂)が「右手を出せ」というような意志的決断をくだし、その命令を脳という操縦席から発しますので、脳に意識があると錯覚されがちです。しかし、あくまでも指令を出しているのは霊魂であり、脳組織のいずれかの部位の細胞が出しているわけではありません。したがって、いくら意志的決断をくだす指令場所を脳のうちに探し出そうとしても見つからないのだと思われます。
 臨死体験とは、アムロ(霊魂)が一時的にガンダムを離脱した時に起こる現象です。そのため、天井からベットで寝ている自分を見下ろすようなことが可能になるのだと思われます。

③西田幾多郎も、神と人間は「父子」の関係であるとし、また神と人間は「神人同性」であるとし、宇宙的意識である神と我々人間の個人的意識を「同質」のものとしております。(『善の研究』西田幾多郎彼の立場からも人間の本体(霊魂)は神仏と同様、いかなる物質的存在にも依拠しないで存在しうることになりましょう。

④フランスの哲学者アンリ・ベルクソン※(1859 - 1941)は、この問題に関して、次のように言っております。

脳は正確に言って、思考の器官でも感覚や意識の器官でもありません。脳は意識や感情や思考を現実の生に向かって緊張させているもの、したがって有効な行動ができるようにさせているものです。言うなれば、脳は生への注意の器官ともいえましょうか。」(世界の名著 ベルクソン 53 中央公論社』184)

 同じ本の162頁で彼は、「脳は運動習慣を蓄積するけれども、脳は記憶を蓄積するのではない」、とも言っております。

 

()記憶の座も霊魂にある 
 あなたがラーメンを作っており、今、あなたには冷蔵庫からチャーシューを取り出そうとの意識があるといたします。その意識は、冷蔵庫にチャーシューが入っているという記憶をもとに生じております。

 作るのは面倒臭いからと、美味しいラーメン屋さんに車を走らせているとしても同じです。グルメ本にあったラーメン店の記憶をもとにして、ハンドルを握っているからです。

 このように、意識と記憶が深く関係していることからすれば、両者を切り離すことなぞ不可能だと思われます。そうであるならば、霊魂に意識の座があると考えた場合、記憶の座もまた霊魂にあると考えるべきことになります。

 

()霊魂が保持している記憶

 霊魂が保持している記憶にはどのようなものがあるでしょうか。

①今世までの記憶
 霊魂に記憶の座があるとし、しかもその霊魂は不滅だとすると、記憶もまた永遠に残ることになります。そうだといたしますと、ある霊魂が存在するようになってから今世までの記憶が全て蓄えられていることになります。あの世での記憶も又しかりです。但し、言葉を獲得するまでの記憶にはそれほど意味があるとも思えません。なぜならば、言葉を使えて初めて記憶できる事柄が圧倒的に多いからです。


②人類ネットワークより獲得する記憶

 ユングは、世界各地の神話や伝承を調査していくうちに、地域・民族・時代・文化が異なっても神話・伝承・昔話の中にはある一定の共通するパターンがある事に気づきました。ここから、彼は、無意識の領域には人類全般に共通する集合的(普遍的)無意識が存在するという仮説を着想するに至りました。

 この集合的無意識を基礎づける事実がございます。神直先生は、還暦のとき、人の世の無事を神仏に御請願するため蛇之倉七尾山の白華瀧に籠られました。そのとき、先生の健康を案ずる方々の念が先生に届いて御請願の邪魔になったという話をされておられました。弟子を下山させ「皆さんのお気持ちは有り難いが、これこれだから、どうか心配しないでください。必ず生きて帰りますから、心配しないでください」という話が残っております。実は、このとき先生は遺書を書いておりましたが、そのことは内緒にして、このように伝えさせました。
 この話は、通常人には察知できなくとも、人の「思い」は四方八方に届いていることを意味しております。虫の知らせ、夢枕に立つ、テレパシーなども軌を一にする現象だと思われます。これらからして、我々は個々バラバラではなく、人類全体を結ぶ無意識下でのネットワークがあると考えて良いでしょう。ユングのいう集合的無意識は、このネットワークによって形成されたものだと、わたしは考えております。


③宇宙ネットワークより獲得する記憶

蛇之倉七尾山祈詞集(じゃのくらななおざんねぎごとしゅう)』では、我々人間のことを次のように記述しております。

吾れ・・創造の神と一体である

〇吾れも又大元霊(おおみおや)し子なれば
 ※大元霊とは創造の神のこと

 これらの記述は、まったく実体のない美辞麗句なのでしょうか。そうではなく、いくばくかでも実体があるとしたら、我々人間は、少なくとも創造の神である大元霊(おおみおや)の系譜に連なる存在だということになります。そうだといたしますと、我々の霊魂には、我々が想定する以上の能力が備わっているものと思われます。たとえば神仏がそうであるように、我々の霊魂も、宇宙のあちこちで起きている出来事に関する情報をキャッチしている可能性がございます。

 霊魂は、人類ネットワークばかりでなく、宇宙意識ともいうべき永遠にして全一(ぜんいつ)※の知的ネットワークに連結されており、その一部を形成している可能性がございます。

 我々は、『蛇之倉七尾山祈詞集』の「我れは宝珠よ宇宙なる」を字義通り理解して、人間は決してちっぽけな存在ではないことを自覚すべきなのかもしれません。

※全一 完全に統一していること。一体であるさま。


(
)脳の役割

 霊魂に意識と記憶の座があるのであれば、いったい脳にはどんな役割があるのだろうという疑問が生じてまいります。私は次のように考えております。

 例えば、ラーメンを作ろうとしているのに、記憶にある料理のレシピが全て同じ鮮明さをもって(よみがえ)って来たのでは、邪魔という他ありません。しかも、霊魂が保持している記憶は料理のレシピばかりではありません。

 わたしは、このとき脳は、記憶全体を(おお)っておいて、ラーメン作りに必要な記憶だけを目だたせているのだと考えます。つまり、脳は、記憶の中から現在実行しようとしている行為に役立つものだけを取り出し、その他の部分をかすんだままにしておくという役割を担っているのだろうと考えております。

 わたしのこの文章に少しでも真実が含まれていれば幸いです。 合 掌